【書評】北浜邦夫監修、高田公理・睡眠文化研究所編『夢 うつつ まぼろし――眠りで読み解く心象風景』(インターメディカル、2005年)
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生きられる風景
小川洋子の『物語の役割』に出合って以降、評者は言葉に先立つ映像の重要性に目を開かされた。心理学の領域ではたとえば箱庭療法などが前言語的映像の秘める可能性を深く自覚していたものと思われる。本書は人間をいわば〈環境内存在〉として理解し、とくにグリーフケアの現場を取り上げつつ、そこに展開しているケアの最前線を特に風景に焦点を当てながら、園芸学、芸術学、精神医学の合流点に立つ治療者の視点から紹介するものである。浅野氏は植物介在療法の専門家、高江洲氏は精神科医で、いずれも上記の領域で複数の学術賞を受けた第一線の研究者である。
まずは目次を挙げておこう。
Ⅰ 生きられる空間と風景
Ⅱ 癒しと緑の関係
Ⅲ 園芸療法とミリューセラピー
Ⅳ ミリューセラピーの実例
Ⅴ 生きられる癒しの風景を求めて
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□科学者と協働する小説家
映画にもなったベストセラー『博士の愛した数式』の著者による、きわめて平易な物語論である。自然科学に多大な関心を持ち、その研究者と活発な協働を行う著者の思想は、その人気の高さを考慮すれば、現代日本の一般的常識における科学とこころ――文学はまさしく心情の表現だとして――のイメージ形成に今後大きな影響を与えていくものと思われる。ちなみに著者には数学者である藤原正彦とのあいだで『世にも美しい数学入門』という共著が存在する。本評では本書を読んで連想したよしなしごとを、徒然なるままに短いながらも綴ってみたい。
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□「失敗」からはじまる
評者はキリスト者として神によるこの世の創造を理解しようと無理を承知で願ってきた。しかし言うまでもなくこの出来事は通常の理解を超えている。キリスト教信仰では、創世に限らないが、「信じる」ことは「理解する」ことに基本的に優先すると考えられてきたため(ただしカトリックでは両者の調和を伝統的に求めてきた)、それに乗じて理解への願いはさほど強いものではなかったというのが正直なところである。すくなくともこの世はすばらしく、かつ進化論も創造論にとってもはや躓きの石ではなく、むしろ神の偉大な創造力の表現として「みごとな」ものだと考えてきた。本書はそのような神話的あるいは親宗教的な進化観を突き崩すダイナミズムを秘めており、無類の刺激を得ることが出来た。
目次を挙げておこう。
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□ベストセラー科学者の告白録
いまさら言うまでもなく著者は『バカの壁』をはじめとして、数え切れない多くの著作を公刊し続ける「ベストセラー科学者」である。縦横無尽のその語り口は、多くのファン(さらには批判者)を生み出している。江戸っ子的な飾り気のない、つまり口の悪さに起因する多様な評判だろうが、科学者として世事一般にたゆまず発言しつづける気力と視野の広さだけをとってみても、われわれのプロジェクトにとって一人の「先人」たることは否定できないであろう。本書は著者のいわば告白録といってもよいもので、他著とは異なり、かなり個人史に基づいたホンネが記述されている。ことに大学紛争にまつわる記憶と、その後の身の振り方については、厳しい態度が表明されている。著者はものわかりのよいオジサンではない。ともあれ、いささか偽悪的な記述の隙間から、科学と人生のあいだを架橋しようという心意気が感じ取られる。
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□身近な死の思い出
著者は子供の頃「自分が死ぬこと」を想像してことあるごとに泣いていたそうである。また日本脳炎に罹って死に掛けた経験もあるらしい。寺に生まれたというだけで信仰を語る僧侶も珍しくないなか、こうした実体験をもつことは有意義なものであろう。いかなる宗教であれ死を正面から捉えるべきだが、ことに日本仏教の場合、寺院が寺族(つまりは寺に暮らす家族)の生計を立てるための「なりわい」の場になって久しい。口の悪い話かもしれないが、いわゆるお寺さんの場合、死の影に怯えた記憶や実際死に掛けた経験の一つや二つないと、どうも語られる対象が持つ重みに負けてしまう気がする。近年メディアに登場する機会の多い著者であるが、青年期の放浪経験ともあいまって、こうした限界状況を経験したことはその語り口にどこなく自信を与えているようでもある。なお本書は「ちくまプリマー新書」の一冊として刊行された。青年層を読者として想定するゆえ、ともすれば専門術語に走りがちな話題を扱いながらも、その叙述はあくまで平易で読みやすい。
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□著者の紹介
鶴見俊輔氏と編集グループSUREのメンバーがホスト役を務め、ゲストから知の逸話を聞きだすシリーズ。戦中戦後の日本思想史に関する「語り部」ともいえる鶴見氏の面目躍如たる企画であろう。本書のゲストは、物理学者でカトリック司祭(イエズス会)の柳瀬睦男氏である。柳瀬氏は1922年生まれ、東大理学部卒業後、イエズス会に入会し、ドイツで哲学、日本で神学、アメリカのプリンストン大学で物理学を学び、のちに上智大学の学長に就任している。著作は多数があるが、本書においては『神のもとの科学』(1991年)が話題として多く引用されている。戦中戦後の科学と宗教との関係を証言するにふさわしい人物だといえよう。以下、章ごとにコメントを加えていきたい。
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□「仏教が好き」
私事で恐縮だが、わたしは仏教が好きである。他方、困ったことにカトリックの洗礼を受けた信徒である。一方は絶対者を持たず、法則を発見し、バランスをとりながら無我を求め、他方は超越者である神からの救いを希求する。前著(佐々木閑著『犀の角たち』)を評した際、語弊を恐れずに〈仏教的キリスト教〉への挑戦が現代日本の宗教哲学界で試みられているとは言ったものの、やはりこの二つの宗教は教義、儀礼、歴史等々において大きく異なり、安易な融合を許さない。
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□定評ある入門書
学術の世界といえども流行り廃れの速い日本では、数年前にさかんに耳にした「アフォーダンス」という概念も今ではさほど聞くことがない。しかしこのような底の浅い体質にも負けず密かに力を蓄え、いずれ思想界に留まらないインパクトを与える例は多くあった。思えばノーベル賞などの高水準の栄誉は実際の発見からはかなり年月を経ってはじめて与えられるのが通例であり、いったん受賞が決まればその影響は自然科学の領域をはるかに超える。アフォーダンス理論にしても、まさに戦闘機パイロットの訓練から本格的に展開した応用性を予期した営みの成果であり、主に産業界において情報のヒューマンインタフェイスが重要な要素になっていることもあり、人間の知覚理論の革命でもあるアフォーダンス理論が秘める可能性は、素人目に見てもかなり高いものだと思われる。
本書はアフォーダンス理論の研究者としてわが国で第一人者である佐々木正人氏の手になり、入門書として定評のあるものである(1994年に刊行され、2008年には第24刷が出ている)。まず目次を挙げておこう。
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□晩年の遠藤周作
実家の書棚を整理していたら、遠藤周作の対談本で、ずいぶん昔に読んだものが二冊出てきた。『「心の海」を探る』(プレジデント社、1990年、以下において『心』と略記)と『こころの不思議、神の領域』(PHP、1988年、以下において『こころ』と略記)である。晩年の遠藤がジョン・ヒックの宗教的多元主義に強く引かれていたことは、最晩年の大作『深い河』からよく知られているが、同時に最新の科学的知識も貪欲に遠藤は吸収していた。この二著は当時の遠藤の関心を描写して余りあるものである。遠藤は現代日本が生んだ最も高名な宗教文学者の一人であるが、筆者は宗教と科学をつなぐ際に、遠藤がたずわったような文学や芸術などの第三項が、媒介者いやむしろ預言的領域としてきわめて重要だと考える。
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(前回からの続きです。)
□心をもったロボットは可能か?
さて、心をもったロボットはどうすれば可能になるのか。換言すれば、目的を自律的に形成できる「小びと」をいかに作成しうるのかが問題となる。一つに、あらかじめあらゆるニューラルネットワークを綿密に作りこんでいくという方法が挙げられるが、それでは人間並みの知情意をもつロボットを作成するためには膨大な時間を要することになろう。二つには、ロボットの心の原型を作っておいて、これをその後のロボットの経験にしたがって成長させていくやり方がある。つまりロボットの赤ちゃんの脳を作っておいて、これを学習させ成長させていくのである。この成長にあたっては進化的計算たとえば遺伝的アルゴリズムといった方法が適用できる。ニューラルネットワークにはそもそも完成された統御するソフトウェアプログラムは必要なく、シナプス荷重をチューニングすることで正しい計算ができるだけでよいという。
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□脳科学への注文
以前、茂木健一郎氏の著作をこのブログでも紹介させていただいたが、それ以降、ちょっと脳科学に注目している。
曲がりなりにもキリスト教を中心に諸宗教(ことに日本仏教)を学んですでに20年近い。浅学非才であることを棚に上げての暴言だが、この領域ではよほどの新説・珍説でもなければもう特別の関心を持つことがなくなっている。悲しいかな、宗教研究の領域から汲み出せるエロスが逓減しつつあることは否めないのである。そうした状況にあって脳科学との出会いはちょっとした回春剤になっている。
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□ミッシング・リングとしてのクオリア
筆者が読んだ茂木氏の作品は、以前このブログで取り上げた小さな論考を除けばこの三冊に過ぎず、氏のクオリア論の原論ともいえる『脳とクオリア』は未読である。しかし、科学と宗教をむすぶ際に求められてきたミッシング・リングのひとつがクオリアであることは否定できないし、また、輪廻転生的な人間観を持たずして、言葉を通じて全人類的な課題である見えざるものを見る志向性の探求を試みる姿勢には、キリスト教信仰をもつ筆者として共感するところが多かった。
□新たな親宗教的神秘の出現
そしてなにより「思い出せない記憶」や「実現されなかった可能性」というたぐいの言葉から、科学と宗教をつなぐ(クオリアならぬ)非相互排他的な仕組みを予想させる。思考を含むあらゆる言語行為は一つの表現の採択に基づくものである以上、かならずその裏に選択/成就されなかった可能性が(通常の場合)複数想定される。その際言葉と不可分な無意識が共鳴して、新たな神秘を潜勢的に醸し出す。よって思考や実験の結果なんらかの科学的事実を発見し、それを言語的に表現した際には、同時相即的に新たな神秘がひそかに発生していると言える。さらに神秘性の表現において宗教が長らく主役を占めてきたことを考え合わせると、その神秘を親宗教的神秘と呼ぶこともできよう。
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□仮想の背景にある切実さ
『脳の中の人生』の一年前に書かれたもので、小林秀雄賞受賞作。新潮文庫版の帯では「代表作」とのことである。
本書において茂木氏は、「近代における人間の公式的世界観、宇宙観」と「必死で闘った」小林秀雄の講演テープに感じ取れる質感(クオリア)を手掛かりに、「この世界のどこにも存在しないものたちを思い描くことなしでは、おそらく私たちの魂はこの世界の現実に堪えられない」ことを示唆し、「目に見えないものの存在を見据え、生命力を吹き込み続けることは、それこそ人間の魂の生死にかかわること」とを主張する。これはまさに「神」や「仏」といった超越者(超越性)の実在に基礎をおく宗教の問題意識に一致する。小林秀雄にとどまらず、ワーグナーや柳田國男といった、目に見えない仮想にこそリアリティを感じ取った人々は、仮想の背景にある切実さを感得しえたのであると主張しつつ、いまではそうした(語義的には矛盾する)〈仮想の現実性〉は、思想や文芸にとどまらず、たとえばゲームに熱中する際のクオリア体験に観察できると茂木氏は言う。
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□〈脳を踏まえて人生へ〉
「まえがき」において茂木氏は「基礎医学」に対して「臨床医学」があるように、脳科学に関しても「臨床脳科学」があってもよいと語り、その中核に根差す発想として「脳も大切だが、人生も大切である」という。つまり茂木脳科学においては〈脳から人生へ〉、より正確にいえば〈脳を踏まえて人生へ〉という道筋が想像されていることになる。脳の構造と機能のいずれに重きを置くかはともかく、茂木氏は人生という〈価値〉の次元にその思考を収斂させる。同書のはじめの二章でその流れが巧みに描写される。
□「思い出すこと」
第一章のトピックは「思い出すこと」である。「想起」といった玄人臭い概念を使わないところが自らの役目を心得ているようで、好ましい。
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□自由なる媒介者
自然科学の領域で最先端の話題をわかりやすく一般向けに説く科学研究者は、この日本においても以前から存在した。科学に疎い筆者ではあるが、雪の結晶が秘める神秘を解説した中谷宇吉郎や「傾向と対策」シリーズでお世話になった竹内均などの名前がただちに思い浮かぶ。茂木健一郎氏もその流れに属す一人である。
しかし茂木氏をわれわれが目にする頻度は、それ以前に現れた同類の研究者と比べて格段に高い。活字媒体はもとより、テレビ番組にもさかんに姿を見せ、一時はバラエティ番組にまでコメンテータらしき立場で登場していたように記憶している。その意味で、彼はたんなる専門的研究者や啓蒙的ライターではなく、一種の知のエンターティナーを目指しているのだろうし、実際そうである。
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理化学研究所 脳科学総合研究センター編『脳研究の最前線』上下(講談社ブルーバックス、2007年)
□「こころに向かう脳科学」
「『脳とこころ』の関係はデカルト以来の難問である。これまでいろいろな仮説的な考えが提案されてきたが、実験科学の問題として扱うことは非常に難しかった。しかし、脳科学が非常な勢いで進歩し、脳の中で働く物質過程の知識が大きく広がった。人の脳の中で起こる活動を測定することもできるようになり、脳に作用する薬剤の開発も盛んになった。知的な興味に止まらず、現代の少子高齢化、情報化社会を生きるためには、脳とこころの関係について科学的に理解することが今や必須の要件になりつつあると思われる。」
これは、今回紹介する『脳研究の最前線』上巻の冒頭に収められた伊藤正男先生の「まえがき こころに向かう脳科学」の一節である。
本書は、理化学研究所 脳科学総合研究センターの創立十周年記念として出版された一般書で、上巻が「脳の認知と進化」、下巻が「脳の疾患と数理」というテーマからなる。
(詳しい目次は、こちら→上巻、下巻を参照)
□理化学研究所 脳科学総合研究センターとは?
理化学研究所の「脳科学総合研究センター」とは、どのような研究機関なのだろうか?
そもそも「理学研究所」(通称は「理研」)は、1917年に創設された日本で唯一の自然科学の総合研究所で、物理学、工学、化学、生物学、医科学などにおよぶ広い分野で研究を進めている研究所である。脳科学総合研究センターは、この理研の中の一研究センターである。
脳科学総合研究センターについては、本書で以下のように説明されている。
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國府田隆夫「科学・哲学、そして宗教の間の対話を求めて―科学者は現代の情況に免責か?」(第3回「親鸞思想の解明」シンポジウム)
□「三つの知の領域」の重層
物理学者(物性物理学・応用物理学専攻)で東京大学名誉教授の國府田隆夫氏が、真宗大谷派の研究機関である親鸞仏教センター(東京)で開催されたシンポジウムで行なった基調講演である(『現代と親鸞』第11号所収、2006年)。
國府田氏は、知をめぐる情況は、庶民の知、職業人の知、文化人の知の「三つの知の領域」の重層として形成されており、その各層のあいだで相互に葛藤があると主張する。庶民の知についてはごく一般的な庶民が、職業人に関しては企業経営者、文化人については宗教者や技術者が念頭に置かれており、いずれもごく世間一般でわれわれが出会う人たちばかりである。
この類別を挙げる際、著者はフーテンの寅さんで有名な映画「男はつらいよ」シリーズを挙げている。極端に専門化した科学者の世界とは異なり、こうしたいわば俗の知性においては、身近な異種同士のあいだで情愛と信頼が生まれ、個別知の領域がなにほどかの叡智に高められていると著者は語っている。
□対話の域を超える事態の発生
他方で昨今の科学の最前線は、もはやこうした牧歌的ともいえる知の調和を想起させえない孤高の境位に至ってしまった。そしてこの俗の知性世界からの離脱は、核問題に典型的な科学の有責性を自覚するにあたって、〈不感症〉とでもいうべき事態を科学者にもたらしていると著者は警告を発する。
他方、世俗の側からは「アインシュタインが全部悪い!」といった糾弾が起こってくるが(ただし、ここでの「アインシュタイン」とは著者によれば固有名詞ではなく、偶像化された物理学者の代名詞である)、このような対話の域を超える事態に対して、「自分たちが直面している難局を専門家や為政者だけに任せてはいられない。自分自身の意見を自分の言葉で言わねばならない」という「異なった『知の世界』に住む人たち」の声に科学者は耳を澄ますべきだと國府田氏は自戒する。
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佐藤哲也『未来を予測する技術』ソフトバンク新書、2007年8月
□「未来を予測する」ことの可能性
独立行政法人海洋研究開発機構・地球シュミレータセンター長の佐藤哲也先生の新著『未来を予測する技術』が刊行されました。
佐藤先生は、本「科学・こころ・宗教」プロジェクトにもご参加いただいております。
→佐藤先生のプロフィールは、こちら(click here)を参照。
→本の内容は、こちら(click here)を参照。
裏表紙に本書の概要が、次のように記されています。
「いつの時代にも求められる未来予測。気象予測、地震予測、経済予測など様々なニーズがあるが、コンピュータ・シュミレーションは、現代もっとも科学的信頼性に基づいて行われる未来予測の手法である。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の調査にも貢献する『地球シュミレータ』を通し、シュミレーションの『今』と『展望』を解説し、新しい文化の胎動を俯瞰する。」
コンピュータという道具を用いたシュミレーションによって、「未来を予測する」ことの可能性を論じたのが、この本です。本書全体を通して、佐藤先生の語り口は、分かりやすくとても丁寧で、コンピュータ・シュミレーションの歴史や特徴が平易に説明されています。
□本書の構成
本書の構成は、以下の通りです。
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教皇庁国際神学委員会『人間の尊厳と科学技術』(カトリック中央協議会、2006年)→目次(click here)
□「科学・こころ・宗教」という視点からみたカトリック神学
評者にとってカトリック神学は比較的なじみの深いものであり、本書で扱われる諸問題も以前より直接的間接的に耳にすることが多いものである。しかしいま「科学と宗教」さらには「科学・こころ・宗教」という視点の外在性と多極性を特徴とする研究の場に身をおいてみると、いままで見えてこなかった、あるいは忘却していた一面が新たな課題として(再)提起されてくる。キリスト教の信仰を持つ一宗教研究者が抱いた素朴な見解を交えつつ、本書を読者諸賢に向けご紹介してみたい。
□教皇庁国際神学委員会とは何か
まず教皇庁国際神学委員会をご紹介すると、1969年に教皇パウロ6世によって始められた組織であり、カトリック教会においてはバチカン公会議以降の「新しい」現象の一つである。教理省直属の委員会であるため、教理的な問題を扱い、すでに『記憶と和解』といった近年国際情勢とも絡んで議論を読んだ文書も出している。ちなみに現教皇ベネディクト16世は最近までこの委員会の委員長を務めていたため、その動向は無視できない重要性をもっている。ただし、委員会が発する文書はあくまで諮問的見解であって、回勅や宣言といった教皇文書のような権威は持たない。
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田辺保、岩田誠著『死に方 目下研究中。――医学者と文学者の彼岸さがし対談』(恒星出版、2005年)
□「生・老・病・死」についての息の合った対話
シモーヌ・ヴェイユやパスカルの翻訳・研究で著名なフランス文学者であり、岡山大学・大阪市立大学の名誉教授である田辺保氏と、東京女子医大教授で脳神経内科が専門の岩田誠氏による対談である。宗教を学ぶもののなかで、翻訳・著作を通じて田辺氏の「お世話」になったものは多かろう。評者の場合も顧みれば院生時代に触れたヴェイユの著作は大半が田辺氏の翻訳であったし、たしかアシジのフランシスコの『小さき花』も田辺氏による翻訳本で読んだ記憶がある。他方、岩田氏については専門違いということで初耳であったが、終末医療こそが医療の究極であるという主張には宗教に通じる視圏を感じ取ることができる。本書ではこの二人が「生・老・病・死」の四点に関して、息の合った対話を交わしている。医学に疎い評者としては岩田氏の発言から多くを学んだ。
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村上陽一郎著『新しい科学論――「事実」は理論をたおせるか』講談社、1979年
□科学論の「古典」
まさに「古典」である。初版は1979年。現在評者の手元にあるのは今年2007年4月の第42刷である。ロングセラーが珍しくない講談社ブルーバックス・シリーズのなかでも最もよく売れているものの一冊であろう。
著者の村上氏は言うまでもなく日本における科学史研究の第一人者であるが、本書は科学史のこまかな知識を説いたものではなく、また読者にその方面の知識を前提として要求するものでもない。むしろ科学が成立する基本的な発想の基本形をやさしく説いたものである。恥ずかしながら科学関係の書籍を読む際には、それがたとえ中学生向きの入門書であれ浅学菲才ゆえにつねに苦労が伴い、さらに告白すれば、超文系であるためか、つねに違和感を抱いていたというのが実情である。しかし本書にかぎってはその手の障害がまったく感じられず、ある意味生まれて初めてスムーズに通読できた科学書となった。さすがにロングセラーなだけはあると感心した。
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【書評】ウィリアム・ヘルマンス著(雑賀紀彦訳)『アインシュタイン 神を語る―宇宙・科学・宗教・平和』工作舎、2000年
□「預言者」アインシュタインの面目躍如
詩人であり、神秘主義者である著者が、アインシュタインと数回にわたり、ドイツさらにアメリカにおいてインタヴューした内容を記したもの。著者が科学者でも哲学者でも宗教家でもないことが、アインシュタインの発想の大胆さを巧みに引き出している。まさに「預言者」アインシュタインの面目躍如たる書であるといえよう。
第一章 アインシュタインとの出会い
第二章 宇宙的宗教
第三章 アインシュタインの宗教観
第四章 世界平和と科学者の責務
一読して印象的なことは、アインシュタインの既成宗教つまりはキリスト教へ向けた冷厳なまなざしと、宇宙的宗教への熱情である。西洋文明に内在する他者としてのユダヤ人であったアインシュタインは、キリスト教諸派への厳しい見解を表明している。結局彼は、宗教とはそれが生み出したものによって判断されると考えている。生み出された醜悪な面を、神ならぬ人間の限界として、あるいは動機の善良さに免じて救い上げるような作為はアインシュタインの目からみればたんなる防衛的反応すなわち言い逃れにすぎない。したがって、アインシュタインはユダヤ教を含めてあらゆる地上の宗教に自己同化することはない。地上の既成宗教はどれも人間の欲望にまみれたものにすぎないからである。むしろ宇宙的宗教(cosmic religion)の視点から現実のあらゆる宗教を包越する次元を、自然科学わけても物理学の視点から是認希求し、その立場から政治的、宗教的、文化的等々のあらゆる判断を行なう。
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【書評】玄侑宗久『アミターバ―無量光明』(新潮文庫、2007年、原著2003年)
□科学と思想をつなぐ営み
ニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルがポストモダンの思想家から多数の引用とナンセンスな議論を用いて「境界を侵犯すること―量子力学の変換解釈学に向けて」というパロディ論文を発表し(1996年)、その後ベルギーの物理学者ジャン・ブリックモンとの共著で『「知」の疑問―ポストモダン思想における』を発表して以降、人文系知識人が科学の「先端知識」を導入してあらたな思想的実験を行なうことは困難となった。わけても他人の目を気にすること甚だしい日本のアカデミズムでは、フランスやアメリカでのどさくさ劇からの余波を被る前に、密かに自主規制へと舵を切ったような観を呈し、いまでは自然科学の高等教育を受けたことがある「文転」経験者が細々と科学と思想をつなぐ営みに従事しているかのようである。
□死者と生者との通交
臨済宗に属する禅僧であり、芥川賞を受賞した小説家である玄侑宗久は、そういった一連の事情などまるでなかったかのように大胆に理論物理学の発想を取り入れ、きわめて独創的な作品を書きあげた。浄土教が育ててきた生から死への移り行き、いわゆる無限の光明に溢れる来迎の場面を、科学的知識との整合性を著者なりに確保しながら描いていく。そこでは相対性理論や量子力学の基本的な思想が言及されるなかで、ことに前者のエネルギー放出の考えが死者と生者との通交へと巧みに応用されている。さらにはトランスパーソナル心理学にも話題は及んでいる。
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□今道友信氏の「エコエティカ」
4月27日午後5時から7時半まで、南山大学にて高名な哲学者である今道友信氏による研究会が開催された。テーマは今道氏が長年追い求めている「エコエティカ」の概要紹介といったものだった。今道氏はすでに『エコエティカ――生圏倫理学入門』(1990年、講談社)という著作を発表しており、評者もその存在は認知していたが、未読のため詳細は知らなかった。今回はじめて著者から直接その概要を聞き、そこから学んだことを簡単に記しておきたい。
□人類性という普遍の「在り処」への問い
まず今道氏は、エコエティカの基本的な発想は人間学的トポロジーだと主張する。今回の発表では、トポロジーの根拠である「トポス」に関して十分な説明がなされなかったため、はじめのうち評者としてはいささか混乱を覚えた。なぜなら今道氏の発表は総じて空間倫理ではだめで、新しい時間倫理が必要だという主張に収斂するものだったからである。もちろん「トポス」は多様な語義をもち、通常「場所」や「位相」と理解されるものの、それらは単なる空間概念ではない。しかし同時に、単純な時間概念でもない。人権の確立や科学技術の発展、さらには組織的な殺戮がこの人間学的トポロジーの焦点をなすというのが今道氏の主張でもあったので、評者としては「文明論」でよいのではないかと思われた。
しかし話が行きつ戻りつ進むうちに、このトポロジーがことに倫理を念頭に置いたうえでわれわれ自身の「位置づけ」を問うものとして提起されているらしいと思えてきた。たしかに不可欠の思考過程として、移り行く時代の倫理的要請に応える営みを持ち続けるが、そのなかで自分の足元を見つめて、自らがおかれた立場を見極め、さらにはその倫理的思索の目的として人類性という普遍の「在り処」が問われていたのである。
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【書評】ジョン・ポーキングホーン著『科学者は神を信じられるか――クォーク、カオスとキリスト教のはざまで』講談社、2001年
目次
第1章 論より証拠?
第2章 創造主である神はいるのか
第3章 この宇宙では何が起こってきたか
第4章 そもそも我々は何者なのか?
第5章 科学者は祈ることができるか
第6章 奇跡をどう考えるか
第7章 ひとつの終末論
第8章 科学者は神を信じることができるか
□聖職者になった物理学者
著者のポーキングホーンは、相対論的量子力学の創始者であるディラックの弟子にあたり、ケンブリッジ大学で活躍した物理学者であり、引退後は神学を学び、イギリス国教会の司祭となった人物である。近年、日本においても自然科学の専門家が聖職者になるケースが散見されるが、ポーキングホーンはやはり別格の大物であるらしく、彼らの一人に「日本のポーキングホーンですね」と語りかけたところ、大いに恐縮された経験がある。
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□「宗教と科学」の間?
まず、次の一節に注目してもらいたい。
「『宗教』の世界観・宇宙観はどうも受け入れにくい。かといって、たとえば、『こころは脳内現象である』と片付けてしまう近代科学の考え方も割り切れなさが残る。わたしたちの多くはそのように感じ、『宗教』と合理主義のはざまのグレーゾンに放り出されている。」
これは、朝日新聞ジャーナリスト学校主任研究員の磯村健太郎氏の新刊『<スピリチュアル>はなぜ流行るのか』(PHP新書)の一節(96頁)である。
この本は、現在の日本社会で注目されているスピリチュアル現象、スピリチュアル文化を幅広く紹介し、分析した本である。
取り上げられている対象は、平原綾香さんのヒット曲「Jupiter」、昨年末の紅白歌合戦で歌われた「千の風になって」、江原現象、「ロハス」ブーム、ドキュメンタリー映画『地球交響曲』、ブログ、mixiなど、幅広く、いずれも興味深い。
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【書評】榎十四郎『キリスト教は自然科学でどう変わるか―人格神・奇跡・来世』社会評論社、2000年
目次
第一部
人格神と自然科学
来世論
人間的実在世界
神義論について
預言と予言
第二部
宗教社会と非宗教社会
「無条件のゆるし」について
産めよ、増えよ、地に満ちよ
著者は長年民間企業で働いてきた理系(機械工学)の技術者で、キリスト者である。本書に先立ち『旧約と新約の矛盾』(社会評論社、1993年)、『体制としてのキリスト教』(社会評論社、1997年)などの著書がある。
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【書評】伊東俊太郎『自然』(「一語の辞典」シリーズ)三省堂、1999年
目次
はじめに
第一章 ギリシアにおける「自然」
第二章 アラビアにおける「自然」
第三章 ヨーロッパにおける「自然」
第四章 中国における「自然」
第五章 日本における「自然」
おわりに
□自明ではない「自然」概念
「自然」という概念は学べば学ぶほどわからなくなる。思えば子どもの頃、自然はまさに自明の存在だった。遊びまわった空き地を取り囲むように生えていた(「植えられていた」とは思えなかった)木々、目立たない用水路に潜んでいた小魚やザリガニ、夏になるとうるさかったセミ等々。これらがただちに「自然」だった。しかし学びは苦悩をももたらす。「自然」の反対語は「文化」である。「自然」は「じねん」とも読むし、「しぜん」とも読む。自然の「自」は「みずから」ともなるし、「おのずから」ともなる。自然に該当する英語は「nature」だが、その概念は「本性」という意味も持つ。それぞれ個別に学んだ時点ではさほど疑問に思わなかった事柄が、同時に一瞥しみれば、どのように関連しているかのかがわからない。自明ではない。
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【書評】広瀬立成(ひろせ・たちしげ)『空海とアインシュタイン―宗教と科学の対話』PHP研究所、2006年
目次
第一章 東寺のアインシュタイン
第二章 空海と真言密教
第三章 アインシュタインの時空間
第四章 二十世紀のあやまち
第五章 二十一世紀へのメッセージ:人類のゆくえ
著者は早稲田大学教授、東京都立大学名誉教授で、専門は素粒子物理学実験。『真空とはなんだろう』、『質量の起源』(ともに講談社ブルーバックス)といった著書がある。
一言でいって本書は、物理学者から宗教への夢を語るラブレターである。評者は物理学を専攻したわけではないので、本書におけるアインシュタインの物理学にまつわる記述に対してはその是非を正確に判断することはできないが、一読したところではとくに問題は感じられず、まず妥当な内容だと思われる。また空海をはじめとする仏教に関する記述も、学術的なものではないが、事実をひどく逸脱した点はないようである。そのうえで著者はこの二つの偉大な発想を類比的につなぎ合わせ、その普遍性、全体論的性格などをもって近代科学の誤謬に対する批判とみなそうとする。そこでは、近代科学は自然を排斥する人間中心主義としていわば「悪玉」であり、アインシュタインと空海はそうした過ちを戒め、より良き未来への予兆となる「善玉」となるのである。
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【書評】笠井恵二著『自然的世界とキリスト教』新教出版社、1999年
本書は、プロテスタント・キリスト教の信仰を持つキリスト教思想史家による、キリスト教の自然観に関する入門的概説書である。自然破壊の元凶を近代の人間中心的な自然観に見出し、かつその源泉をキリスト教的自然観に置く思潮が昨今しばしば目撃されるが、本書はこうした発想に対するキリスト者側からの穏やかな護教の書となっている。
□全体の構成
全体の構成は以下のとおりである。
第Ⅰ部 聖書による自然観
一 旧約聖書における自然
二 新約聖書における自然
第Ⅱ部 キリスト教史における自然観
一 アウグスティヌス
二 トマス・アクィナス
三 カルヴァン
第Ⅲ部 二十世紀における自然観
一 シュヴァイツァー
二 バルト
三 ティリッヒ
四 内村鑑三
五 矢内原忠雄
六 モルトマン
第Ⅳ部 批判に応えて
一 ホワイトの批判
二 安田喜憲の批判
むすび
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