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2009年3月11日 (水)

【書評】西村明著『戦後日本と戦争死者慰霊―シズメとフルイのダイナミズム』(有志舎、2006年)

Gpss090311  本書はいささか「科学」とは縁遠い話題を扱うものだが、「こころ」(ただし社会におけるもの)と「宗教」とが接する境界領域における出来事を扱っていることもあり、つまり既成の心理学、社会学、宗教学といった学問領域では零れ落ちてしまう貴重な問題を取り上げたものであることから、われわれのいわば〈越境する勇気〉をさらに喚起するためにも有益と考え、ここにご紹介するしだいである。また本書が扱っている中心的事例は、近代科学技術が行き着いた果てに生まれた原子爆弾に関わるものであることから言っても、いささかテーマとしては周縁的とはいえ、われわれとしても無視できないように思われる。

 戦後日本の平和運動(ことに行政主導の儀礼行事)さらにはそれを支える平和思想(ことに政治的主張)は総じてともに宗教的な側面を抑圧抑制してきたために、あるいは主催者の宗教的理念の正当性を自明視してきたがゆえに(宗教系ことにキリスト教系の平和運動において顕著)、事実上多数を占めるそれ以外の諸活動が秘める複雑な心情面に対しては実証的研究がおざなりにされてきたといえる。本書はこのような状況を、主に宗教社会学的な知見を活用しながら打破する労作である。なお本書は第三回(財)国際宗教研究所賞受賞作品であり、川村邦光氏による詳細な書評が『宗教研究』353号(日本宗教学会、2007年9月)に発表されている。
 戦後日本の反戦運動は総じて戦争を絶対悪とみなし、将来の戦争防止が過去の戦争に対する知に足の着いた反省よりもいささか先走り的に重視されてきたようである。しかしこのような状況のなかで、ことに戦争がもたらした身近な死者の想い出に密着する庶民の心情は、実際は複雑な表現を見せていたにもかかわらず、いわば理想的な運動・思想が安定期を迎える前の助走期に特有の〈ぶれ〉や試行錯誤にすぎないとして、考察対象として必ずしも正当な地位を与えられてこなかった。著者は、このような抑圧ないし抑制されてきた〈影〉とでもいえる事態に対して、内外の先行研究を十分に配慮しつつ実証の光を投げかけることで、まさに書名の副題に挙げられたように、慰霊という社会現象がかいまみせる「ダイナミズム」を見事に描写している。

□シズメとフルイ
 本書は二部構成であり、第一部「戦争死者へ向き合うこと」(1~3章)において著者は、軍人兵士という戦闘員の死だけを扱う「戦死者」ではなく、戦死者に加えて非戦闘員である戦災死者を含めた、戦争による死者全般を指す「戦争死者」という概念を独自に措定する。さらに分析用具として、なんらかの暴力性に対してそれを抑制・抑圧する「シズメ(鎮め)」と、自律的・他律的力の発動を促すすべての傾向を指す「フルイ(奮い)」という概念を提起する。著者によればこの概念は、死者と生者との関係を表す理念型であり、顕彰であれ追悼であれ、戦争死者慰霊ならば基本的にともに見出されるものである。そして、この二極を枠組みにもつことで慰霊儀礼がもつ多様な特徴が発見されるのだ。
第二部「戦後慰霊と戦争死者」(4~7章)はその副題にもあるように、長崎での原爆慰霊を扱う。長崎市という行政を核としつつも、その周辺に密接に関連したかたちで執り行われた民間主導の慰霊が見せる諸形態を広く視野に収め、比較分析するとともに、日本社会における他者である朝鮮人原爆死者の問題に取り組んだ日本人活動家、被爆長崎医科大学生の慰霊、さらには国立原爆死没者追悼平和祈念館といった諸事例を考察するなかで、慰霊の多様性と流動性を見て取っている。この第二部で著者がなしえた現地調査と報道資料の収集分析からなる実証的研究は質量ともに類書に見られないもので、後続の研究者に与える示唆は多大である。
 さらに本書末尾には総括として「まとめと展望」が置かれ、そこでは「シズメ」をめぐって行政体制と民間とのあいだで観察される調和と相克が類型的にまとめられている。また、二人称的で家族関係に根ざした親密空間から記憶が抑圧されることで親密性の喪失に至った三人称的な無縁空間〔「無縁」とは、主に特定の少数者が既成の社会関係の枠組みから漏れ落ち、傷つき、さらには忘却の畏れにさらされる状態〕がもつ危険性と、そうした否定的な事態を超え出る無縁空間ならではの肯定的可能性〔差別された特定の少数者が既成の支配体制から逸脱した自由を享受する可能性を秘める状況〕が描かれている。

□死者の復権
 本書が示す第一の貢献は、「死者」という存在に正当な社会的地位を提供したことである。著者は平和祈念式典に着目する。そこに観察できる、死者が平和を誓う対象として生者にいわば優越していた時代から冥福を祈る側の生者の優越が確立する時代への移り変わりを緻密に描写することで、「死者」の立場があらためて浮び上がってくるのである。しかも評者の考えでは、ここで獲得された成果はたんに宗教社会学の領域に留まらない。つまり、こうしたアプローチにより、カトリック神学の「聖徒の交わり」や晩年の田辺哲学における生者と死者の「実存協同」といった発想に顕わな難問である〈死者のリアリティ〉が宗教社会学的視点から考察されることが可能になり、その結果そこから得られる知見が、ことに昨今みずからの社会的意義に懊悩する宗教哲学などに対して多大な示唆を与えることが予想されるのである。

□たましいの争奪戦
 第二の貢献は、戦争死者の慰霊をめぐって行政に代表される国家体制と民間とのあいだで戦われてきた〈たましいの争奪戦〉が、シズメとフルイという二極から巧みに描写され、その矛盾相即する内実が明らかにされた点にある。従来ともすればいわれてきたように、簒奪する国家に対して傷つけられながらも抵抗する民間という、いわば善玉対悪玉的な二分法で割り切れるものではなく、死者の記憶がなまなましかった敗戦後しばらくは、行政の慰霊儀礼も民間的なものと調和し、宗教的な要素をも受容する柔軟性を保持していた史実を著者は明らかにしている。また国家にむけて戦争死者の貢献を忘れるべきではないという主張することで、つまり国家の権威のもとに戦争死者へ向けた制度的な補償や謝罪がなされるべきだと要請することを通じて、民間サイドが死者の普遍性を国家経由で獲得しようとしてきた事実も明らかにされている。このような複雑な事情の実証的分析は、本書以外でも近年見ることができる。たとえば赤澤史朗氏は著書『靖国神社』(岩波書店、2005年)において、戦死者遺族の靖国神社護持にまつわる心情の変遷を詳しく観察することを通じ、遺族の心情が必ずしも国家主義的な傾向と完全に一致していたわけではなく、敗戦後しばらくはむしろ国際平和へと向かう可能性を秘めるものだったことを明らかにしたが、西村氏による本書も近年の赤澤氏らの研究潮流に合致するものだと思われる。
 しかし西村氏は、たんにその輻輳した状況を平板に叙述するに留まらず、全体として国家は民間の慰霊儀礼を国家的統制から逸脱するものとみなし、一貫して危険視していると判断する。そして「国家が何を積極的になすべきであり、なすべきでないことは何かということをめぐる、より綿密な議論」が必要だと結論する。つまり思索における価値判断を倫理的な当為性の自覚というかたちで引き受けているのである。こうした使命志向的態度は、みずからも社会現象のひとつである学術活動が本来そなえるべき倫理性の成就として、評者は肯定的に理解している。

□「無縁」の可能性
 第三の貢献は、先にも触れた「無縁」を基本的概念として導入することで流動性がもつ肯定面・否定面をたくみに描いて見せたことにある。本書末尾での引用で言及されているように、評者もまたカトリック神学の立場から「無縁」概念に長らく注目してきた。しかし、「ひょっとしていたら自分がそうなっていたかもしれないという一人称的死への実存的不安」をそこに読み取ることで、この概念の持つ深みを実証研究にもとづきリアルに描写しえたのは、ひとえに西村氏の貢献である。

□課題としての和解
 このように本書は、ただ事実がひたすら列挙されているだけの冷たい分析の集積ではなく、特定の価値観に彩られた従来型の平和運動から死者のリアリティを救い出そうとする情熱を秘めるものであり、また既成宗教教団をあえて考察の主対象からはずすことで、日本社会における宗教性の広がりを具体的に描ききった一例として傑出した成果である。
 しかし、こうした長所は同時に短所と裏腹の関係にある。著者のいう「行為遂行的記憶」の重視は、事前には想定外していなかった〈他者〉を慰霊行為の場に引き出す作用を本来果たしうるのだろうが、いっそう周縁的なそうした他者への言及は本書において禁欲されており、ごくわずかなものに限られる。ここに見出される限界はさらに、自己の責任を果たす以前の、そもそも責任が自己に存在することを他者不在のままで自覚できるのかといった〈主体の立ち上げ〉における問題と重なってこよう。結局本書は、生者に対する死者というドラマチックな対比ではすばらしい成功を収めたが、多様な生者、さらにはもろもろの死者の間に生起する複雑な交流に関してはいまだ予覚の段階に留まっており、その結果、いささかすっきりしすぎた主体を想定するに留まっている。
 このような不十分さを克服するためには、気が重く、かつ長い時間を要する作業を経てはじめて獲得できるパースペクティヴのもとではじめて可能な〈和解〉という難題を目標として想定することが有益だろうと評者は考える。一読したかぎり和解という概念は本書のなかに読み取ることができないが、情熱を秘め、学術的営為の倫理性に自覚的な本書において隠れたテーマになっている、あるいは少なくとも将来的な目標として密かに想定されているように思われる。
 こうした印象は評者のたんなる思い込みにすぎないのであろうか。たしかに本書の最終結論で著者は、死者との邂逅がつきつけるのは「われわれの生そのものの扱いという、生に対する態度決定の問題なのである」と語ることで、問題をあくまで生者の責任において確定している。またそれは言うまでもなく、生者こそが主役である社会現象を扱う宗教社会学という学問の良識を担うものである。しかし、立ち上げられた死者という他者はそう簡単に鎮まることはないだろうと評者は思う。
 方法論的な側面に目を向ければ、本書の分析用具である「シズメ」と「フルイ」は、その発見機能をいっそう強化するためにも、さらなる精緻化が必要と思われる。さもなければ上記のように相互に矛盾し輻輳する事態を扱う際、空中分解を起こしかねない。私見では著者の思想的立場は、間主観性、他性、想像力、生活世界といった点で現象学的社会学に通じるものがあると思う。著者はたとえばアルフレッド・シュッツ〔Alfred Schutz〕らの著作から有益な知見を得ることができるだろう。
 とはいえ、評者によるこうした批判はいわば先走った「ないものねだり」の近い(いわば、ためにする)意図的誤読とも言え、本書のすばらしさを傷つけるものではまったくない。本書はこれまで光が当てられなかった非教団的宗教性を、やはり日の当たらなかった生者と死者との交わりという視点から論じたもので、視点の独自性と高い学的水準を併せ持つ稀有の労作である。今後、戦後日本社会における慰霊を宗教学的に研究する者にとって、この書はあきらかに必読書となろう。俊英の登場を心から喜びたい。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所非常勤研究員)

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コメント

南山宗教文化研究所「科学・こころ・宗教」プロジェクト
南山宗教文化研究所さん

南山宗教文化研究所さん、こんにちは。突然のコメント、失礼致します。
オンラインブックガイド「新刊JP」を運営しております、新刊JP編集部と申します。

茂木さんの脳研究にご関心をお持ちとの記事を拝見して、コメントをさせていただきました!
今日はそんな熱心な南山宗教文化研究所さんに是非ご紹介したい本があります。
茂木健一郎さんの新作、『化粧する脳』という本です。

内容を少しご紹介すると・・・
・女性は鏡に向かって化粧するとき、左右対称の顔、つまり「人から見た顔」に近づけようとしている。
・鏡に映った顔、メイク前は自分の顔、メイク後は他人の顔と認識している。
・「チラ見せ」が、エロスのキモ。

など、当然のようでちょっと不思議な現象を、脳科学の面から研究・分析しています。
単純な読み物としても気軽に楽しんでいただける大変興味深い内容になっていますので、是非お手にとってみてください!

なお、茂木さんの特別インタビュー記事のほか、音声インタビューも、今なら無料でお聞きいただけます!是非こちらもご覧にいらしてください。
http://www.sinkan.jp/special/kesyou/
それでは、突然のコメント、大変失礼いたしました。
新刊JPはまだブログを運営していないのですが、ご意見などありましたら、是非こちら→http://www.sinkan.jp/help/otoiawase.htmlからお寄せください!お待ちしております。

投稿: 新刊JP編集部 | 2009年3月18日 (水) 15:00

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