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2009年2月24日 (火)

【書評】『大航海』第69号「特集:脳・意識・文明」(新書館)

□ジェインズ『神々の沈黙』への助走
Gpss090224  年に四回刊行される思想誌『大航海』であるが、年初に発行された第69号は本プロジェクトに見合った内容をそなえるため、簡単に紹介しておきたい。この『大航海』誌は幅広く思想界の話題を取り上げる点で青土社が発行する『現代思想』に似ているが、その語り口はいっそうやわらかく、より広汎な読者層を想定しているようである。この特集号には多くの論考が収録されているが、主なものを拾い上げてみると以下のようになる。

貫成人「意識のさまざまな起源」
柴田裕之「ジェインズ『神々の沈黙』の射程」
青野由利「意識を研究する科学者たち」
西垣通「心の脳の情報学」
岸田秀・三浦雅士「『二分心』理論と精神分析」(インタビュー)
伊藤邦武「意識の人格――ジェイムズの場合」

などである。その他、宇野邦一や宇波彰といった現代フランス思想紹介でなじみの各氏も論考を寄せている。とくに三浦による岸田へのインタビューがメイン記事であることからわかるように、ジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』で唱えた「二分心」が特集の要となっている。ジェインズのこの書が大著であるだけに、またその書に応えて出版された多くの著作や論考が一般的に専門的で難解なものであるがゆえに、上記の諸論考は壮大なジェインズ理論へ飛翔するに際して格好の助走路となりうると言えるであろう。

□文理融合の魅力
 柴田の「ジェインズ『神々の沈黙』の射程」は、『神々の沈黙』の訳者によるジェインズ理論の簡明な紹介である。「二分心」説という世間では耳慣れない概念は、脳の右半球が「神々」に属し、左半分が「人間」に属し、今から約三千年前までは右半球が主体であり、人々は意識においてではなく、いわば無意識から直接神の言葉を聴いていたという仮説である。ジェインズは世界各地の文明の揺籃期においてはこの二分心が観察されるとともに、やがて文字の発達などによって二分心が衰退し、替わって意識や道徳が発達していくと言うのである。柴田が紹介するようにジェインズが論証過程で取り上げた事例は極めて広範に及ぶ。エジプト、メソポタミア、ギリシアなどの歴史学的、考古学的、比較文学的成果が息つくまもなく紹介される。ジェインズは本来心理学者であり、ハーヴァード大やイェール大に学び、かつ教鞭を執ったアカデミズムの世界の住人であって、いわゆる「トンデモ系」のサイエンスライターではない。アカデミズムを基盤にした、ここまで壮大な仮説は、過剰にすみわけの進んでしまった日本の学界では唱えられにくい。その意味でも柴田の論考はジェインズ理論が秘める力動性を素直に伝えており、読者の知的関心も大いに刺激されるであろう。

□近代的意識モデルおよび客観主義的アプローチへの批判
 情報学が専門の西垣は慎重である。ジェインズの主張はやや粗い仮説であり、ことに意識以前の古代世界において、はたして全員が神の声という「幻聴」を聴いていたのかという点で根本的な疑問が残るという(ジェインズが「幻聴」という語を使用していたのかどうかに関して評者は未確認)。にもかかわらず、西垣はジェインズの主張は近代批判ことに自立した個々人が選択した結果は自己責任で追うべきだという新古典派経済学モデルに対する反論として優れたものだと高く評価する。マスコミに踊らされるという表現からも想定できるように、われわれは一種の「お告げ」のようなものを今でも聞いていると西垣は語る。
 このような状態では明確な主客の分離はない。西垣は遺伝子決定論を批判し、生命体は刺激を受けて構造変化し、生命体はあくまで環境と両立するかどうか模索しながら自由度を持って生きていると語る。まさにこの考えは、本ブログ上で先に評者が紹介した遠藤秀紀『人体 失敗の進化史』に述べられていた苦し紛れの設計変更という発想に通じるものであろう。環境と不可分の状態で、生命体は変化しつつなんとか生きている。このような微妙さはお世辞にも〈美しい〉と表現できないと先評で評者は述べたが、しかし肯定的な価値判断をこめて、〈いとおしい〉とは表現できるかもしれない。このような感性の提示が宗教や科学をつなぐ〈こころ〉を学ぶ者の課題となるであろう。

□白川静とジェインズ
 精神分析が専門の岸田はジェインズの仮説に批判的である。ジェインズの基本的思想はフロイトそのままであるとし、また二分心がなぜ誕生したかについて語っていないと批判する。岸田に対しては三浦が基本的にジェインズ擁護の立場から発言しているが、両者の話が最もかみ合うのが漢字学者として著名な白川静を論じる段である。
評者は岸田理論(ことに歴史への適用としての唯幻論)については依然として懐疑的な立場にあるが、しかし三浦も同調しているように、自我発生以前の人間の「残酷さ」理解は興味深く感じられた。たとえば古代中国殷の時代には奴隷の生贄が頻繁にみられたが、その一見他人への思いやりがないというこの事態は、自我が確立していない時点では他者の自我への配慮もありえず、かつそもそもその他者も自我を持ってはいないことに起因するという。「何か、人間そのものが違っている」という強い印象がここに生じる。ここで白川によれば、漢字は象形文字としての起源を持ち、漢字の発生は自我が発生する前の呪術的段階の出来事であり、現代人はその起源を忘却しているとなる。そして三浦の解釈では、呪術段階での漢字は解読されるべき神の言葉だったが、音声文字化することにより、個の内面規範に転化したのであり、この意味でジェインズ理論と重なり合ってくるのである。
 岸田の独自性は、自我発生以前は超自我(神的なるもの)とエスが融合した一種の一神教的な性格を持ち、そこに自我が芽生えて多様な状況に対応すべく多神教が形成されたが、それが追い詰められた民族(ユダヤの民)の特殊状態から異常現象として退行した結果、現在の一神教が生まれたという説明に明らかとなる。そこでは神と非神としての悪魔という二分心が再生されているというのだ。とならば、他者の配慮などなく、まるで自我(他我)が存在しないように、かつての殷や旧約のユダヤの民の他民族虐殺譚のごとく世界規模の悲劇が生まれているとも想像できよう。

□〈理解できない〉暴力を前にして
 正直言って、評者にはこの仮説の是非を判断できない。しかしわれわれの内面にこの二分心的な構造が休止状態でありながらも存在しており、しかもそれが現代情報社会のなかでさまざまな〈人間離れした〉物語や映像によって刺激を受けた際に再活性化しうるとしたら、自我や理性に多く依拠する伝統的な神学や宗教哲学ではこうした事態には対処しきれないことになろう。いま〈理解できない〉〈常軌を逸した〉暴力(たとえばナチズムのユダヤ人絶滅政策やルワンダにおける大虐殺など)が、いわゆる〈先進国を十二分に巻き込んで〉吹き荒れている現状を知りつつ、われわれが学問的営為を積み重ねるにあたり、こうした仮説をまったく無視することは困難であるように思われる。遠藤周作は、どこか救いとアナロジカルな罪ではなく、快感すら伴う悪という難題に至り、まさしく懊悩したが、もしかすると、その悪の先にはこの二分心が潜んでいたのかもしれない。
(寺尾寿芳・本プロジェクト協働研究員)

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コメント

こんにちは。
この特集は岸田秀先生と三浦さんで、「神々の声とは、母の声だ」と岸田先生が一言で喝破されているのが興味深い対談でした。

投稿: id | 2009年2月25日 (水) 18:33

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