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2009年2月12日 (木)

【書評】小川洋子著『物語の役割』(筑摩書房、2007年)

□科学者と協働する小説家
Gpss090212  映画にもなったベストセラー『博士の愛した数式』の著者による、きわめて平易な物語論である。自然科学に多大な関心を持ち、その研究者と活発な協働を行う著者の思想は、その人気の高さを考慮すれば、現代日本の一般的常識における科学とこころ――文学はまさしく心情の表現だとして――のイメージ形成に今後大きな影響を与えていくものと思われる。ちなみに著者には数学者である藤原正彦とのあいだで『世にも美しい数学入門』という共著が存在する。本評では本書を読んで連想したよしなしごとを、徒然なるままに短いながらも綴ってみたい。

□物語と死者
 死と一体化した生の現場にあふれる緊張感から物語は生まれる。「非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っている」からである。そして「物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけている」。つまり、物語は対象をさまざまな要素へと水平的に分解し、それを情報として体系化したようなものではない。むしろある要素を拡大し、別の要素を抑圧しつつ、さらに外部的要素を好みによって付け加えることで各々の自我に合うように仕立てあげた衣服のようなものといえるだろう。
 ともあれ、同じ出来事に遭遇しても、そこから語られる物語は実に多様だ。たとえば黒澤明監督の映画『羅生門』(1950年)では、そうした輻輳する物語がさらに無定形で開かれた形で見るものを巻き込む不気味にして魅力的な光景が描写されていた。この映画でことさら興味深いのは、巫女によって冥界から呼び出された死んだ侍の霊が生者と同じく証言を行い、話に深みを与えているエピソードだ。
 本書の著者である小川も強く死者の存在に引かれ、死者のはたらきによって突き動かされるという感性の持ち主である。「自分の小説の中に登場してくる人物たちは皆死者だなと感じてい」るうえに、著者本人もが「かつては死者だったかのような、・・・死者をなつかしいと思うような気持ちで書いてい」ると証言する。死者に突き動かされて、もともと死者だった人物が、「ストーリーも実は小説にとってたいした問題じゃない」という次元で行う創造の営みこそが、著者にとっての制作にほかならない。また本書の後半では、金光教の教師を祖父にもち、その教会で育った著者が幼い頃に体験した死との遭遇が紹介され、なみなみならぬ著者の宗教的環境が告白されている。

□「初めに言があった」か?
 さて著者は物語の源泉を意外なことに言葉ではなく、映像だと語る。「小説の第一歩を踏み出すためには、そういう鮮やかな重層的な映像が必要不可欠」であり、そして「『悲しい』と書いてしまうと、ほんとうの悲しみは描ききれない。言葉が壁になって、その先に心をはばたかせることができなくなる」と主張される。(評者も経験として著者の見解に同意する。)
 ここで想起させられるのが、有名な「初めに言があった」という「ヨハネによる福音書」の冒頭の言葉である。いうまでもなくここでの「ことば」は神であり、単純な情報源ごと混同されてはならず、「光あれ」に典型的な創造原理を象徴する根本語である。とはいうものの、「あれ(fiat)」には命令さらには派生的に願望が意味され、日常言語で表現されるすべてのものを含んだ存在の始原を描写する語にほかならない。他方、小川の直観が見抜くがごとき創造は、沈黙した死者による言語以前の映像に始まる。よってそこでは言語による物語は本来的な映像をある意味で裏切る、懊悩に満ちたいわば二次的な行為となる。沈黙した映像には耐え切れない自我が映像に修正補正を施して自分にあった衣服へと仕立て上げること。これが物語つまりは文学の営みとなる。
 宗教(信仰)は文学(物語)ではないが、もしその宗教が全人類の日常における普遍的な価値をもちうると主張したいなら、最低限人類共有の財産と認められる古典文学としても通用しなくてはなるまい。では言葉以前のこの原イメージはどのようなものか。「創世記」第1章第1~2節によれば、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」である。神の最初の言葉はつづく第3節の「光あれ」。よって天地は言葉以前によって生まれた(でもどうやって「初めに、神は天地を創造された」のだろうか・・・また、第一質料的に描かれるこの混沌から、命であり暗闇を破るものである光が発出したわけでもあるまい・・・神学の講義でどのように学んだか、忘れてしまった・・・)。しかし、この動く混沌は光の登場以前には描きようがないのである。キリスト教の歴史においてこの原イメージの映像化は忌避されてきたといってよい。実際、宗教美術史の領域でもこの「光あれ」以前における天地創造の描写は総じて少なく、かつ印象に薄いのではなかろうか。要するに、土台無理な注文なのである。
 しかし現代物理学の最先端は、まさにこの瞬間を描き出そうとしているようである。光なき映像がもしそこで描かれるならば、聖書文学の解釈は根源において深くて持続的な衝撃を経験することになろう。いまだその域に至っていないように見えるのは、幸福なのだろうか不幸なのだろうか。
(寺尾寿芳・本プロジェクト協働研究員)

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