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2009年2月13日 (金)

【書評】黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』(集英社、2007年)

□日本語をめぐる危機感
Gpss090213  日本語が危機に瀕しているという。書店の店頭では水村美苗著『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』が平積みにされ、その隣にはその書を特集している『ユリイカ』(詩を中心とした文芸評論誌)が同じく積み上げられている。「英語帝国主義」への反論には長い「伝統」があり、いまさらの観があるが、評者の感じるところでは、日本語が直面しているこの危機感はグローバル経済の進展に伴い、ゆっくりではあるが確実に強まっているように思われる。立ち読みした限りでも、上記の『ユリイカ』に収録されている論考には「滅んでしまってもかまわない」式の前置きが目立った。

もちろん逆説的な諧謔精神の現れ(なにせ『ユリイカ』だ)だろうが、それにしてもこの語り口は本当に滅んでしまうのではないかと言う恐れを前提としなくては機能しがたいことから考えても、現代日本語が体験しているなんらかの脆弱性は実感を増しつつあるのであろう。しかし、そこには水村氏の著作に先立つ、多くの日本語危機本が世に現れ出てきた歩みがある。本書はそうしたさきがけのひとつである。

□母音と子音
 本書の著者である黒川伊保子氏は、大学で物理学を専攻し、コンピュータ企業でAI開発に携わり、現在(株)感性リサーチ代表取締役を務める。いわば文理の接際領域で活躍するサインエスライターといったところであろうか。
 日本語は、ポリネシア語とともに、世界でまれに見る母音を主体に音声認識する言語であり、対して、その他の欧米語やアジア諸語は子音主体で音声認識している。母音を主体とする日本語は、感嘆語が母音で発せられることからわかるように、きわめて情緒的であり、その情緒性が母子の緊密性に典型であるように、他者との融合志向の言語である。そしてこのような自他の境界線を引こうとはしない言語は、グローバルな交渉の場面において被傷的(ヴァルネラブル)な立場におかれる。そして幼児からの英語教育は母語の修得を妨げ、どちらつかずの混乱した人格を生み出す危険な政策に他ならない。これが黒川氏の基本的主張である(この例外的な母音主体言語という発想は、言語処理における右脳左脳の違いを強調した角田忠信氏に拠っている)。
 黒川氏はさまざまな例証を行う。たとえば、「Ka, Ki, Ku, Ke, Ko」のように子音と母音の組み合わせで形成される日本語の特徴を子音「K, S, T」から読み解き、Kには硬い固体感(「カラカラ」、「コロコロ」)、Sには空気を孕んですべる感じ(「サラサラ」、「ソロソロ」)、Tには粘性のある液体のイメージ(「タラタラ」、「トロトロ」)といった発音体感の明確な法則性があり、日本語の特徴をなすと主張する。たしかにこの体感そのものは妥当だと思われるが、これは日本語に限らず欧米語でも多く見られる現象だろう。たとえば英語の「clash, slash, trickle」など(もちろん「c」の発音は[k]、また液状は「T」のみならず「F, D」―flow, dripなど―という近類の子音)はどうだろうか。また欧米語の自己の硬さが子音の硬質な音と重なるという発想も、たとえば現代英語でうんざりするほどの自己主張を感じさせる一人称単数人称代名詞「I」が堂々たる二重母音であることを思い起こせば、必ずしも正しいとは言いがたいように思われる。この話題については比較言語的な精査が欠かせまい。そもそも言語の本質を決定付けるための、あるいは重要な根拠を与える要因が排他的に発音体感に限られるわけではないだろう。また子音言語は威嚇効果のある子音のみを拾い上げることで自他のあいだに線引きをし、せめぎあう緊張感に満ちた言語だとされるが、中国語にはなく、日本語にはある促音便は言葉にメリハリを与え、発話者への注意を喚起する効果を持つように思われるが、どうだろうか。
 日本語や欧米語(端的に言って英語)に関する著者の個々の指摘はたしかにそうした現象を読み込むことは可能ではあるものの、そうした性格を不動の本質とみなし、さらに社会的特性の根拠へと敷衍していくことは、評者の目には行き過ぎと思われる。ことに著者が語る英語圏の人々の描写は、日本語の話者から見るとそのように「見える」ということではなかろうか。逆もまた真なり。とすれば、こうした著作はおそらく単著では言いっぱなしに終わってしまうような気がする。できれば英語の話者との対話・共著として世に問われるべきであろう。
 ともあれ、本書が示す言語間の比較は魅力的だが、それをうけてわれわれが日本語と美しさを関係付ける際には、もっと慎重に、相対的で柔軟な発想をとるよう心がけるべきである。ここで評者の念頭には小林秀雄の「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という言葉が浮かんだ。世阿弥の「花」を語るこの一節がともすれば〈事実存在と本質存在〉の対比として理解されるには一理ある。なぜならこの一節はまさに本質論的な自家撞着の危険性を回避する知恵を想起させる名言であり、言語の特質を語る際にも十分配慮するに値するからだ。そしてこの慎重さを経たうえで、あえてその本質を探っていくべきであり、他の類書と同じく、本書にはいささか慎重さを欠くきらいがあるようにみえる。

□早期英語教育の弊害
 とはいえ、この著作から学び、また同意できることも多かった。とくに、ある日本人の親子が桜の花を目にして、バイリンガル教育を実践する母親が「It’s Cherry blossoms. How beautiful!」と教え込む場面に対する著者の批判は首肯できる。母親が感動しているのは、まさに日本的美意識の典型とも言える散りゆく花びら。対して彼女の言う「cherry blossoms」はじつはびっしりと豊満に咲き乱れる枝ぶりを描く表現。このずれを日本での平均的な教育を受けた母親は哀しくも認識できない。しかも深刻な事態は「桜」と「cherry blossoms」との意味のずれではなく、むしろ「ことばの語感と、母親の所作や情景がずれる」ことにあると著者は語る。たしかにこうした感動の現場で顕著な、つまり情感に満ちた言語は、情報としての意味を伝達しようとするものというよりは、まず「意識と所作と情景を結ぶもの」なのであり、まさにこのような情緒経験の共有(それは親密な信頼関係に支えれている)から人間は人格の最も深い次元で言語を覚えていくのだとすれば、このような場面で混乱した、あるいは間違ったスタイル(反応のタイプ)を幼児期において過剰に身に着けてしまうと、その後の言語生活ことに多言語のそれにおいて、安定した言語感覚を修得しそこねてしまい、ついにはアイデンティティの揺らぎを帰結してしまう危険性が高くなるだろう。こうした著者の危機感は正当なものと思われた。言語は記号として意味を表すだけではなく、むしろ優先的に場面を現す所作や情景という映像・イメージ的なものなのである。このような映像体験を重ねて、言語や美意識が形成されていく(視覚に障害がある場合は、他の感覚が複合的にその代替をなすのであろう)。ともあれ、先に小川洋子の『物語の役割』を論じた際に取り扱ったテーマがここにも現れてくるのである。
(寺尾寿芳・本プロジェクト協働研究員)

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