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2009年1月13日 (火)

【書評】養老孟司著『運のつき――死から始める逆向き人生論』(マガジンハウス、2004年)

□ベストセラー科学者の告白録
Gpss090113  いまさら言うまでもなく著者は『バカの壁』をはじめとして、数え切れない多くの著作を公刊し続ける「ベストセラー科学者」である。縦横無尽のその語り口は、多くのファン(さらには批判者)を生み出している。江戸っ子的な飾り気のない、つまり口の悪さに起因する多様な評判だろうが、科学者として世事一般にたゆまず発言しつづける気力と視野の広さだけをとってみても、われわれのプロジェクトにとって一人の「先人」たることは否定できないであろう。本書は著者のいわば告白録といってもよいもので、他著とは異なり、かなり個人史に基づいたホンネが記述されている。ことに大学紛争にまつわる記憶と、その後の身の振り方については、厳しい態度が表明されている。著者はものわかりのよいオジサンではない。ともあれ、いささか偽悪的な記述の隙間から、科学と人生のあいだを架橋しようという心意気が感じ取られる。

□日本人は諸行無常
 全11章からなる本書のうち第8章「日本人は諸行無常」のみに焦点を当て、以下でご紹介していきたい。「諸行無常」という仏教用語を表題にもつことからも推定できるように、本章では宗教ことに仏教が取り上げられている。ちなみに諸行無常とは、この世の現実存在はすべて常に流動変化するものであり、一瞬たりといえども同一性を保持しえないことを意味している。
 著者は中村元による阿含経の解説書を読んだ際、自分の著作が経典であることに気が付いたと語る。これは自著を聖典視することを意味するのではなく、著者年来の主張である唯脳論が意味するのは、仏教的「諸行無常」が示唆する無我、つまり西欧的な近代的自我とは根本的に異なる「変わる」私なのだと言うことである。霊魂不滅を前提としたキリスト教に発する西欧近代的自我つまり「私は私、同じ私」が科学にも引き継がれ、いまの近代的世界を事実上支配していると前提としたうえで、しかし、著者や科学者ありながらもその発想にくみしないとする。そこで重要な視点を提供するのが言語とされる。

□そもそも日本語が「諸行無常」
 著者は自覚的に日本語で著述活動をしていると言う。学術論文などで英語を使うことも多いが、その場合の英語は所詮「通じる」という次元を出ないものであり、思考の癖を規定するほどのものではない。そして歴史の中で仏教的発想に強く影響されてきた日本語で思考しているうちに、著者の思想はすっかり原始仏教の現代的表現になってしまったと告白する。
 著者の基本的態度は本書全編を通じて、きわめて方法主義的である。ちなみに第6章の表題は「学問とは方法である」となっている。そして人間の本質に最も深く浸透している方法が、われわれ日本人の場合は日本語という言語であり、われわれは日本語の枠を決定的に出ることは、著者を含めた通常の日本語で育ってきた人物には無理と思われるのである。つまりその方法主義は、方法を気ままに取替えることで融通無碍に状況に対応できる主体を想定するものではなく、「変わる」私において与えたれた方法に染め上げられた哀しみを通奏低音として聞き取るものになっているような印象がある。著者のいささか乱暴な語り口の影にはこの悲哀があると読むことは、誤読であろうか。

□悲哀のわざとしての科学
 著者の宗教理解(ことにキリスト教理解)はかなり図式的なものであるが、それでも共有できる考えは、非西欧世界に生まれ、日本語が骨の髄まで染み込んでいる人間が、宗教のみならず科学ですら、いわば西洋人に伍して活躍していくことの難しさと哀しさである。分裂した「たましい」を強烈に統合しうる知的蓄積あるいは天分に恵まれたいわば天才でなければ、科学の世界を創造していくことはできないのか。これだけ非宗教化され、また西洋文明学び始めてからすでに久しい日本社会でありながら、そこで「科学する」際、どこか悲壮な決意や違和感、またときに滑稽なまでの敬意を感じる遠因が、言語性さらには言語によって根底から特徴付けられた文化性にあることは十分想定できるものだと評者は考える。(もちろん言語に絶対的優越性を見出しているわけではないが、言語と心性との相関性は極めて高いと思われる――「心が通じない」と思われる際に見出される最大の障壁は言語ではなかろうか。)
 日本人が科学の最前線でグローバルに活躍していく際、どこかこの哀しみを示唆するものであってほしい。そうであってこそ科学にまつわる普遍主義に過剰なまでに毒された状況から人類全体を救い出すことも期待できよう。本書を通じて、本プロジェクトがそのような場のひとつとして成熟していければと、あらためて念じるしだいである。
(寺尾寿芳・本プロジェクト協働研究員)

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