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2008年12月 8日 (月)

【書評】玄侑宗久著『死んだらどうなるの?』(筑摩書房、2005年)

□身近な死の思い出
Gpss081208  著者は子供の頃「自分が死ぬこと」を想像してことあるごとに泣いていたそうである。また日本脳炎に罹って死に掛けた経験もあるらしい。寺に生まれたというだけで信仰を語る僧侶も珍しくないなか、こうした実体験をもつことは有意義なものであろう。いかなる宗教であれ死を正面から捉えるべきだが、ことに日本仏教の場合、寺院が寺族(つまりは寺に暮らす家族)の生計を立てるための「なりわい」の場になって久しい。口の悪い話かもしれないが、いわゆるお寺さんの場合、死の影に怯えた記憶や実際死に掛けた経験の一つや二つないと、どうも語られる対象が持つ重みに負けてしまう気がする。近年メディアに登場する機会の多い著者であるが、青年期の放浪経験ともあいまって、こうした限界状況を経験したことはその語り口にどこなく自信を与えているようでもある。なお本書は「ちくまプリマー新書」の一冊として刊行された。青年層を読者として想定するゆえ、ともすれば専門術語に走りがちな話題を扱いながらも、その叙述はあくまで平易で読みやすい。

□現代科学と「あの世」
 本書には「あの世」に関する日本での伝統的理解が秘める内実を明らかにするさまざまな言及があるが、本評ではあくまで著者が科学それも理論物理学の知見を活用しながら宗教ことに仏教を理解していく過程に注目してみたい。仏教では死ぬと、からだを構成している地・水・火・風という四つの働きが解けて分離し、宇宙そのものの流動性である「空」へ還っていくと考えられている。その空を著者はデーヴィッド・ボームのいう「暗在系」にあたると言う。ちなみに暗在系とは「素粒子の霧」のような状態、つまり純粋にエネルギーであり、しかもいたるところに均等に存在する状態。万物が渾然一体となって畳み込まれていて区別がない状態。この暗在系の全体運動が生命の根源であり、気と呼ばれるものであるとされる。さらに自己という錯覚からほどけ、自他の区別がなくなった状態を悟りであると著者は考える。
 もちろんこうした類比はいわば文学的な表現であり、厳密性に欠けるものだと批判することはできる。しかしこれはあの世に向かう道程でおこる事態の新しい、つまり科学を活用した表現であり、また誰も死から戻ってこられない以上、その真偽の科学的立証が問題なのではなく、死すべき人間の生き方の物語としてどの程度他の物語より説得的であるか、つまり人々からいかほどに受容されるかという結果から妥当性が判断されるものであろう。もちろんその「他の物語」の有力候補としてキリスト教がありえる。キリスト教の発想と現代物理学の成果がどのように整合するのか、その出会いの〈美しさ〉は、はたして著者が語る仏教版の出会いと比べてどうなのか。それはもはや宗教的アイデンティティを自己の中心におかず、宗教より科学を事実上優先している世俗化された現代人の知のマーケットで優劣が決まるのだろう。われわれは科学以前に還ることなどもうできない。

□「くせ」と「できごと」
 著者によれば、物事に始めや終わりがあるのも、世界を構成する最小単位としてのモノがあるはずだというのも、じつは人間、ことに西洋人の脳が長年にわたって身に着けてしまったクセとされる。しかもこっそりと全体性を考慮することなく、範囲を限定することで分析を実践することを優先しているという。ところが「あの世」や「魂」はこの密かに捨象された豊かで無限の全体性にかかわっている。そこで著者は、たとえば、その捉えどころのないものに関する魂を実在としてではなく、「できごと」として理解する。この出来事は脳において生起するのだが、困ったことに、われわれの脳はメモリのある部分と計算する部分が分かれておらず、すべての記憶が蓄積された同じ脳で感じることも考えることもこなしている。そして長年にわたり蓄積されてきた記憶による意識の傾向は知覚そのものにも影響を与えるのであり、それを仏教ではカルマと呼ぶと語られる。結局われわれが遭遇するすべての現象は、われわれの脳の傾向と外界の接触による「できごと」でしかないらしい。(はたして脳科学的に言って、このような見解が妥当なのかどうか・・・)
 さらにつづけて著者は「できごと」を鍵術語として論を進める。たとえば、個人的無意識の自律的複合体である「魂」と集合的無意識の自律的複合体である「霊」はともに、「無意識が優位になる変性意識状態における『できごと』」である。釈尊が形而上学的な問いに対して沈黙を貫いたのも「現実がつねに観測者と観測されるものとの相互作用によって決定される『できごと』であることを熟知していた」からだ。そしてこのようなできごとに関して一々あるかないかと探るのは単なる脳のくせにすぎない、と。

□信じる・感じる・わけのわからなさ
 キリスト者の風下にも置けないと非難を受けそうだが、科学との整合性については仏教のほうがキリスト教よりも先を走っているのではなかろうか。突き詰めてみると、キリスト教と科学的世界観とのあいだでは、結局神は無から有が生まれた「最初の一撃」においてだけ存在価値を持つのであって、その後は自然法則にしたがって万物は生成していくという素朴な発想を結局超えられなかったように評者には思われる。もし絶対者が自由に自然法則を変更できるならば、自然科学者の研究など根底から無駄なもの、あるいはそこまでいかずとも仮初めの気晴らしにすぎなくなるだろう。ともあれ、キリスト教は万事において「わからねばならない」。その背景には〈信じる〉という行為において、信じる対象を設定する必要があり、設定された以上、そこには信じられないものを漸次信じられるものへと変えていくベクトルが見出される。たとえ「不合理ゆえに我信ず」であっても、この志向性自体がなくなるわけではない。他方それとは対照的に仏教では(おそらく)「わかる必要がない」。「できごと」以前の実在する実体など何もないし、そもそも認識の主体は無我を目指して、意図的に対象の把捉所有という行為から離脱していく。著者が本書で活用した現代物理学の知見も、「できごと」を受け止め、その自由自在で念々起滅の現象を〈感じる〉手助けとなれば十分である。そしてなにより仏教はそこで感じ取られる偶然性に開かれており、その〈わけのわからなさ〉を楽しむことができるように思われる。その余裕が死に対する態度でも有効に働いているように思うのは単なる思い過ごしであろうか。
 ともあれ、仏教に観察されるこうした自由闊達な生成の顕在に対して評者としては魅力を感じざるを得ない。しかし現代人の知のマーケットにおいても「分の悪い」キリスト教ではあるが、まだ希望がないわけではないだろう。たとえば、歴史的に描かれた神の本来の姿、つまりヘブライ的な神の〈わけのわからなさ〉には神を対象として公式に押し込めるようなことはしない自由さを観てとれる。ある数学者(たしか京都大学の上野健爾氏だっと思う)が、現代数学においてはヘブライ的無限がギリシア的構造に勝利したと語っていたのを記憶しているのだが、もしそれが正しいなら、現代数学の発想からわれわれは「ギリシア(さらにはラテン)の捕囚」のもとにある神を改めて描写しなおすことができるかもしれない。そこにすでに先を行く仏教的な調和が重なってくれば(実際は仏教に引き付けられていく形になろうが)、さぞや〈美しい〉ことであろう。あまりにも自身の専門から遠いため内実を夢想することすらできないが、期待できるテーマだと信じたい。そうした営みを通じて〈わけのわかない〉死へ向けた道行を助けてくれる現代キリスト教的『往生要集』が模索できればと評者は願っている。
(寺尾寿芳・当プロジェクト協働研究員)

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