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2008年11月25日 (火)

【書評】柳瀬睦男著『科学と信仰のあいだで』(シリーズ鶴見俊輔と考える②、SURE、2008年)

□著者の紹介
Gpss081125_2   鶴見俊輔氏編集グループSUREのメンバーがホスト役を務め、ゲストから知の逸話を聞きだすシリーズ。戦中戦後の日本思想史に関する「語り部」ともいえる鶴見氏の面目躍如たる企画であろう。本書のゲストは、物理学者でカトリック司祭(イエズス会)の柳瀬睦男氏である。柳瀬氏は1922年生まれ、東大理学部卒業後、イエズス会に入会し、ドイツで哲学、日本で神学、アメリカのプリンストン大学で物理学を学び、のちに上智大学の学長に就任している。著作は多数があるが、本書においては『神のもとの科学』(1991年)が話題として多く引用されている。戦中戦後の科学と宗教との関係を証言するにふさわしい人物だといえよう。以下、章ごとにコメントを加えていきたい。

□対話の場をつくる哲学
 スコラ哲学者であった故松本正夫を交えて柳瀬氏と対談を経験したことのある(ただし出版はされなかった)鶴見氏の主導権で対話は始まる。鶴見氏は宗派や流派と無関係に受容される数学の普遍性を高く評価しつつ、そこに「隠された実在」を見出す。この概念は柳瀬氏の発想に基づくのだが、鶴見氏にとっては長年抱えてきた実在論と唯名論のはざまでのゆれる心をたくみに受け止めるものと歓迎されている(パースは実在論であり、ジェイムズは唯名論に立つとしたうえで、鶴見氏は比較的に前者に親近性を感じているようである)。そしてこの「隠された実在」は価値観と結びついて、たとえばホワイトヘッドの「不滅」(イモータリティー)のように人間の尊厳に結びつくものだと鶴見氏は考えている。それは何も厳密な学問領域に留まらず、社会的な諸次元、たとえば反天皇制の闘志であり、処刑された金子文子の「永遠の存在の中に実在しつづける」という宣言にも重なり合う力動的なものであり、説得力に満ちていると語る。またホワイトヘッドが最終講義の末尾で発した「精密さというものは、つくりものだ」という一節がつづいて引用される。このように隠されながらも共有され、しかも厳格な精密さを要求しない柔軟さにこそ鶴見氏は対話の根拠を見出す。
 柳瀬氏も同様な発想を保持している。「最高の霊的な存在である神様についてのそれぞれの認識は、あいまになるのは当然だ」という一節がそれにあたり、「はっきりしたことを言えるのは自分自身の存在だけであって、ほかはファジーなこと、曖昧なところが残る。自分の存在から演繹していくしかない」のであって、「自分の存在を確かめるのは、あなた自身にしかできないから、やってみることをおすすめします」と柳瀬氏は語る。この勧告は悟りを求めて自らを灯火とする仏教の基本的態度に通底するものであろう。
鶴見氏はこうした隠匿性さらには自己の実践性の極致をイエスが十字架上で発した「なぜわれを見捨てたまいしか」という叫びに見出している。おそらく宗教の信頼性というものは理性で納得できない、こうした矛盾態の突入なのであろう。そこで隠された実在としての隠れた神がわれわれ人間の隠れた霊的次元を一気に魅了する。キリスト教を離れても、たとえば親鸞の『歎異抄』において疑いや矛盾を契機として信仰へ向かう言葉が散見されることはわが国ではよく知られている。たしかにわれわれが親鸞に感じる魅力は、剛体的な論理構造ではなく、むしろ実存的な闇の深さと、そこから放射する救いの可能性である。

□物理学と信仰と
 本章は、柳瀬氏の物理学者から修道者への道行きが語られるとともに、柳瀬・鶴見両氏共通の知人が数多く登場し、まさに知識人階層の縮図を間近にみるような印象を与えてくれる。そこでは真に自己を確立し、抑圧的体制に抗し得た物理学者が数人登場しているが、わけても渡辺慧の存在が大きい。渡辺はキリスト者(聖公会信徒)であり、戦前戦中期においても臆することなく国家主義批判を繰り返していた。しかしキリスト教はもとよりマルクス主義のようなイデオロギーにも依拠することなく、つねに自由な発言を貫いている。しかも渡辺の態度には他者を受容することで自己批判の目を確保するという健全な開きがあったとされる。そのような柔軟な態度の頂点として、渡辺は物理学の世界での湯川秀樹に注目している。実際渡辺が「湯川秀樹だけが天才だ」「ノーベル賞には大と小がある」と語っていたと鶴見氏は証言している。その湯川の天才の所以は、ヨーロッパの最先端の論文とは別の道があるというオリジナリティにあった。このオリジナリティこそが「美しい」と表現されるのだ。
 この「美しさ」は単に孤高に屹立する美ではない。評者はプロジェクトリーダーの三田一郎氏と度重なる会話を通じて、物理学における真理が美しいものであることを教えられたが、それがいかなる点で美しいのかがよくわからなかった。おそらく最終的な法則が簡潔な公式で表現されることではないか。しかし、その簡潔さがどの程度なら美しいといえるのか。といった推定と疑問に満たされてきた。しかし本書で柳瀬氏は一つの論理を組み立てるだけではなく、「あるところまでいったら別のところからつくりあげた理論と合うとかね、それを見ていたら、きれいだなと思う」と語るが、この一節で腑に落ちたと感じた。つまり単純さではなく、出会いと統合の成就こそが美しいのだ。この開かれた態度こそが美の源泉である。まさに科学も宗教も単なる主体的態度を超えて、こうした調和の客観的可能性につねに配慮しておくべきなのだろう。

□異なる伝統との対話
 最終章でもこれまでの主張が繰り返される。冒頭でコミュニオン、それはカトリックのミサにおける聖体拝領を意味する言葉でもあるのだが、この共同性が強調されることにより、出会いと対話の重要性が再度確認される。しかし鶴見氏らしくそれは同一性の共有ではなく、むしろ〈ずれ〉ゆえの面白さの経験にこそ顕在化するものと語られる。お互い考えていることがずれながら対話が進んでいく「こんにゃく問答」が、一つの理想態として紹介される。しかし同時にかつての論語の素読のような、若年時における徹底的な単純訓練の重要さも指摘される。そしてこの両者のはざまから湧き出てくる「疑い」ことが最も目に留めておくべきこととされる。たとえば鶴見氏は若い頃に聴講したバートランド・ラッセルの授業でラッセルが「自分の言ったことはすべて間違いだ」と語ったと想起しているが、そのラッセルの発現は、論理学者としては誤謬だが、人間として哲学を語っていることなるのだと鶴見氏は高く評価している。結局、科学にしても宗教にしても、人間としてどのようにそれらとともに歩んでいくのか、という人間学的問題が最後に浮上してくるのだろう。ここからも評者は、わたしたちの思考において、おそらく佐々木閑氏が主張した「人間化」は避けられないものだと考える。しかしその流れが人間の暴走へと頽落する事態を防ぐには、どこか人間の内面から湧き上がってくる他者が必要だろう。この他者と意識的な自己とのずれに敏感であるからこそ、われわれはホワイトヘッドに倣って、「精密さというものは、つくりものだ」という健全な常識を保持できるのだと思う。いま評者としては、〈無意識〉との出会いがその重要な契機になりうるのではないかと考えている。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)

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