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2008年11月 7日 (金)

【書評】遠藤周作と科学

□晩年の遠藤周作
081107a 実家の書棚を整理していたら、遠藤周作の対談本で、ずいぶん昔に読んだものが二冊出てきた。『「心の海」を探る』プレジデント社、1990年、以下において『心』と略記)と『こころの不思議、神の領域』(PHP、1988年、以下において『こころ』と略記)である。晩年の遠藤がジョン・ヒックの宗教的多元主義に強く引かれていたことは、最晩年の大作『深い河』からよく知られているが、同時に最新の科学的知識も貪欲に遠藤は吸収していた。この二著は当時の遠藤の関心を描写して余りあるものである。遠藤は現代日本が生んだ最も高名な宗教文学者の一人であるが、筆者は宗教と科学をつなぐ際に、遠藤がたずわったような文学や芸術などの第三項が、媒介者いやむしろ預言的領域としてきわめて重要だと考える。

081107b_2 これらの領域に従事する者は、情報の伝達や分析ではなく精神の深み、いわば魂に発する表現活動を行うものであり、ひたすら明晰さを追い求める研究者とは異なり、科学を扱う際にも理性を越える次元の発見的ないし予言的な機能に秀でているものと期待できるからである。その点で遠藤周作は「大物」であり、これらの本も刊行されてすでに二十年が経とうとしているが、再読に値するものであるといえよう(いずれも文庫化されたものの、単行本ともどもすでに絶版であるようだが、ネット古書店などで比較的容易に入手できる)。

□絶妙の媒介者
 遠藤にとって科学はまずもって医学や心理学であった。それは若い頃に重篤な結核を病み、生死を分ける一線をさまよった経験からきている。それはとくに『心』において顕著である。医学者(新井明池見酉次郎)、心理学者(河合隼雄)さらには学際的な立場から深層心理や生死を扱う研究者(湯浅泰雄カール・ベッカー)が対談の中心者となる。その個々の内容に言及する余裕はこのブログではないし、また現在から顧みれば特段に目新しい情報はない。注目に値するのは、遠藤が対談の成果を正しく蓄積し、新たな対談に際しては蓄積した知見を正しく披露し、新たな地平を対談の中から引き出そうとして努力している点である。それは単なる物見遊山的な好奇心から科学に接近しようとしているわけではないことを示している。やはり遠藤の死生を決する強い実存的な関心から出た、絶妙の媒介行為なのである。実際遠藤は編集者から急かされてやむを得ず対談の場に引きずりだされたのではなく「小説家のくせに対談が大好きである」と表明し、また事前に対談相手の著作を読み、基礎概念を持った上であらためて査問させていただく」(『心』、263頁)と言っている。もちろん狐狸庵先生らしいユーモアをときに混ぜながら、巧みに対談相手の本音を引き出している。

□魂のリアリティ
 『こころ』においては、平田晴耕小此木啓吾林道義吉福伸逸野澤重雄らと対談を重ねているが、野澤を除いて基本的に人間の精神、心、魂を扱う実践家である。筆者はトランスパーソナル心理学やユング心理学の方面には不案内であるが、たとえば吉福との対談の中での遠藤による「人類の歴史は全部一個人の歴史の中にある」という発言や、林との対談において共時性に遠藤がひたすらこだわる箇所に、遠藤がキリスト教の教義や儀礼を魂のリアリティへと差し戻して考え直そうという強い意志を持っていたと感じる。その際、心理学や医学の最前線の話題は、まさに学会・大学・病院などといった権威と自己同一化した既存制度による無理解と抑圧との戦いを通過してきた点で、最晩年の遠藤が事実上、バチカンが最も恐れた宗教的多元主義という話題、そしてインドという危険な地域性を主題として創作活動の総括を行うに至る道を切り開く過程で大きな貢献をなしたものと思われる。

□哀しさと明るさ
 こうした遠藤の宗教の分を守った上での科学志向、より具体的には暗在系の科学である深層心理学への傾斜について、小説家であり、また修道生活の経験者でもある高橋たか子はつぎのように冷めた目で論評している。「遠藤周作に言ったことを、現在の私がすこし言いかえよう――深層心理学はこの世へむけて人間を癒すためのものであり、キリスト教はあの世へむけて人間を過ぎ越させるものであり、向きが違うのだ。といっても彼は、キリスト者としての後者の向きをもちながら前者の理解をそこへ綜合させたかったのだろう。過ぎ越すにしても人間深層がよくわからぬままだと見通しがつかぬから、ということだろう」。しかし科学の成果に日常生活の基礎を支えられてこの世を生きる現代の信仰者にとって、ただひたすら神に頼って死への過ぎ越しを念ずることは、相変わらず理想的ではあっても、その実行は哀しくも不可能であろう。しかしその懊悩の道をどうせ歩むほかないならば、遠藤のように明るさを失わずに死への過ぎ越しを目指し、新領域に探求に踏み出すことは一つの希望となるだろう。近年筆者にとって身近な宗教哲学や神学の領域で、いささかマニアックな文献主義(それは往々にして減点主義を帰結しがちである)の台頭が散見されるだけに、昔懐かし遠藤の実存の深みを射程に収めつつも遊び心に満ちた眼差しが、ことさら貴重なものに見えてくる。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)

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