【書評】村上和雄、棚次正和著『人は何のために「祈る」のか――生命の遺伝子はその声を聴いている』(祥伝社、2008年)
プロローグ 祈るだけで遺伝子がオンになる
第一章 「祈りは良薬」になる、これだけの証拠
第二章 なぜ、人は祈り続けてきたか
第三章 なぜ、人間にとって祈りが不可欠なのか
第四章 自分のために祈るか、他人のために祈るか
第五章 どうすれば上手に祈れるようになるか
エピローグ 祈ることはいきいきと生きること
じつは著者はともに近現代日本の新宗教系の信仰の持ち主であるが、本書ではそれは明記されていない。しかしそれは必ずしも特定のバイアスが掛かっているという意味ではなく、生物化学や宗教哲学者の立場を前面に出しているということであり、また本書に関してはキリスト教や仏教という歴史上特筆すべき大宗教の価値観がそのまま是認されているわけではなく、広い視野に立っていることにもなっている。とはいえ、本書を貫いて、いわばニューエイジ的な価値観が基調をなしている点は否定できないものと思われる。
□奇跡は祈りの結果なのか
主に村上氏による著述と推定される箇所では、科学的な立場からみて通常の理解を超える「奇跡」が祈りによってもたらされることが、主にアメリカの「精神神経免疫学」から得られた事例をもって主張されている。その奇跡はプロローグの表題にも見られるように「遺伝子がオンになる」という表現をとる。祈りによって遺伝子に秘められていた可能性が顕在化することをさすのだが、ヒトのゲノム構造が万人において共通であることから、この奇跡は万人に起こりうるとされている。しかも祈りとはきわめて現実的な行為であり、つねに「最適解」をもたらすものといわれる。つまり祈りによってもたらされる結果は多数かつ妥当性において幅のある諸解のなかの一つがたまたま現れるといったものではなく、より優れた候補がありえない最適解なのである。なぜそれが最適であるかといえば、祈りとは鳥が空を飛び、魚が水中を泳ぐような自然本性の営みである点が理由として挙げられている。
さて、村上氏のこうした主張は経験的な事象の解釈と言わざるをえない。たしかに祈りと奇跡とのあいだになんらかの機制はあるのかもしれないが、それはどのような関係性か。著者が認めるように祈りが必ずしも法則的に結果をもたらすとは限らないとすれば、それは因果関係ではなく、相関関係に留まるだろう。その一方で村上氏は現時点では実験による数値化の実績が乏しいが、いずれ必要なデータは蓄積されるだろうとするが、そうした帰納的なアプローチは相関性の高まりを示唆しえても、因果関係の証拠にはならない。もちろん著者たちは祈りと奇跡を因果関係として証明しようとはしていないのだが、他方「最」適解として「そうなることは必要だった」という水準で結果として生じる奇跡を理解する。「祈りという行為は自然本性である」とされている点にその必然性の根拠があるのだろうが、この妥当性はどれほどのものだろうか。恥を忍んで告白するが、論理学に通じていない評者は混乱のなか判じきれないもどかしさを感じてしまう。
□感情(感謝)の重視
しかし祈りと奇跡が因果関係にはなく、相関関係をなすのであれば、その一種のあいまいさにこそ宗教としての潤いが残るともいえる。長く「祈り」を研究テーマとしてきた棚次氏は、「日本人は宗教よりも祈り(生き方)に重きを置いてきた」とし、さらにルソーに学んで、「下手に知識に頼るよりも、感情をうまくコントロールしたほうが人生はうまくいく」と語る。すでに村上氏は遺伝子のスイッチをオンにするのは強い刺激だと語っていたのだが、そこにつなげると、感情の強い揺れはこのスイッチを押す契機として第一に挙げられるものになるだろう。著者たちは全編を通じて知識ならぬ知恵、それはまた直観知としているのだが、ここに感情という要素が新たなに統合されることになる。よって祈りはかなり感情のエネルギーを用いて遺伝子の可能性を損なうことなく、むしろ活性化するものでなければならない。そこで要請されるのが「感謝」である。喜びの感情を自己ではなく他者へとまず向ける機制を、著者たちはいわば生活習慣的に祈る態度によって獲得しようとして本書末尾にそのポイントを要約している。その要は願いが実現した姿をイメージしながら祈るという一種のイメージトレーニングである。
□ポジティブ・シンキングの新展開と限界
著者たちの試みは結論として一つのポジティブ・シンキングの様態を提示するに至った。科学の手法を使って相当程度の相関性を予想し、さらにそこへ自身を投企するにあたり、日々の営みにおける感謝の深みを宗教哲学的に描くことで、ともかくも一つの枠組みを形成し、読者に提供することにおいて著者たちは一応の成功を収めているといえる。かつての自己啓発的なポジティブ・シンキングは行動主義的な勝利主義に彩られ、自我の強化に過剰の信頼を置くこと(当然そこには反動としての諸々の抑圧が生じる)を重視したが、本書が打ち出したのは遺伝子がまるで仏性のごとく成功を潜勢態として内在させており、あとは喜びに没頭することで現勢態へと成就せしめるに至るという究極の楽天主義だといえまいか。
著者たちの言う通りならどんなに素晴らしいことだろう。評者は彼らの意見に基本的に好意と希望を抱くものである。
しかし、これは遺伝子に依拠するだけに、どうしても喜べない鬱気質の持ち主の場合は遺伝子のスイッチがオフのままであるうえに、さらにがん細胞――科学的知見としてがん細胞が非自己ではなく自己の細胞であることを常識としてわれわれは保持している――のような悪しき遺伝子のスイッチをオンにしてしまうことになりまいか。もちろんそれは因果的に必ずそうなるというわけではなく、あくまで相関的にそうなりがちだというに留まろうが。ともあれ、日ごろ悲観的な性向を有する(心理的)〈がん体質〉(?)評者としては、こうした――確定性に発する恐怖ではないものの――未確定の不安を超えるためにも、やはり自己の感情を越えて介入してくる「神」のような超越者を必要とせざるをえないのだとあらためて思い知らされた。原罪あるいは深く無明にまみれているというニヒリズムが遺伝子も当然含む人間存在の根源にまで染み渡り、表層的な意志(および科学的知識)のみではもはや喜びという感謝を持続しえなくなっているともいえようか。
要するに、評者さらには評者のようなタイプの人間は、著者たちのようには祈れないか、祈るにしても自然本性が傷ついているゆえに祈りを成就できないと考えてしまう仕組みをすでに獲得している。著者たちは「意志と想像が争うとき、勝つのは想像である」という鉄則を語るが、それを承けて言えば、すでに評者のような人間は〈悪しき〉想像によって遺伝子の芯まで深く染められているのであり、遺伝子の可能性を信じきれない。信仰者に散見されるようなこうした傷が癒いえるには、さらに精緻なしくみをもつ知恵――たとえばこうした自縛を徐々にデトックスするための段階的治療法――と指導者が必要なようである。〈染み抜き〉には相当な熟練の技が必要だ。業/罪は遺伝子よりも深い、か。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)
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コメント
初めまして。アンテナに入れて、いつも興味深く拝見させていただいています。村上先生は、『アホは神の望み』という本がアマゾンの科学読み物の中でずっとランキング1位になっていて、非常に興味を惹かれていたので、本書が取り上げられて嬉しいです。
最近私が読んだ本に『ゲノムと聖書』(フランシス・コリンズ著 NTT出版)があり、それがまた、キリスト教信仰と科学(特に進化論や、生命倫理の問題など)との折り合いについて、正面から取り扱っているのですね。以前こちらのブログでアメリカの創造博物館のことが取り上げられていましたが、『ゲノムと聖書』の中でも創造論者に対する批判もありました。こちらのブログで先に創造博物館のことを読んでいたので、ふむふむと読み進むことができました。私としてはとても興味深い本だったので、もしよろしければ、ぜひこちらの書評欄でも取り上げていただいて、Swanson先生のご意見なども伺えたら嬉しいと思いました。
これからもこのブログを楽しみにしています。
投稿: SASAKI | 2008年11月13日 (木) 14:16
コメント頂戴いたしまして、まことにありがとうございました。うれしいです。
科学と宗教との交わり、ことにその最前線をわかりやすく書くことは、ともすれば誤読や批判を招きがちでありましょうが、じつに有意義な試みだと信じます。村上氏、棚次氏の挑戦には敬意を払っております。
機会がございましたら、お知らせいただいた『ゲノムと聖書』にも挑戦してみたいと思います。ご教示まことにありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: 寺尾寿芳 | 2008年11月15日 (土) 11:42
『ゲノムと聖書』についてのご指摘、ありがとうございます。まだこの本を見てないのでなんともいえませんが、調べて見たいと思います。AmazonでFrancis Collinsを検索したら、多くの本がありましたが、和訳された英語のタイトルを教えていただけますか。
大雑把な印象ですが、ゲノム研究は人類の歴史を数万年まで遡ることが出来ると理解してますが、これは6千年の「若い地球説」にとって打撃的なことではないでしょうか。本書では「創造論」をどのように取り上げられているかについて興味があります。
投稿: Swanson | 2008年11月17日 (月) 12:36