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2008年11月20日 (木)

【書評】佐々木閑著『犀の角たち』(大蔵出版、2006年)

□著者紹介と目次
Gpss081120a  著者の佐々木閑氏は1956年生まれのインド仏教学者で、現在花園大学教授。京都大学工学部で工業科学を専攻した後、文学部に学士編入し、以来インド仏教学を専攻している。科学と宗教を考察するにふさわしい経歴といえる。しかも著者の科学に関する説明はきわめて明確かつ核心をついたもので、学部のみの専攻とはいえ、生半可な理解ではないものと信じるに足る水準に達している。目次を挙げておこう。

序文
1 物理学
2 進化論
3 数学 (付論 ペンローズ説の考察)
4 釈尊、仏教
5 そして大乗
あとがき 未来の犀の角たちへ

評者は才能と時間の制約から第三章の数学は省かせていただいたが、一瞥してこの数学を扱った章もわかりやすい論述で貫かれているようである。読者諸賢にはぜひ挑戦していただきたい。

□神秘性の排除と科学の人間化
 著者は科学と宗教の類似点を都合よく集めて、両者の融合を図るようなあり方を厳しく批判し、重要なのはそれぞれが目標とする世界観を明確に把握し、両者の未知の関係性を明らかにすることだと語る。その際、神秘性を極力排除するが、それは神秘性を排除しても成立すると著者が理解する仏教が科学と同一の世界観に立脚しうるという確信に発している。科学を宗教へと〈魔術化〉するのでもなく、逆に宗教を科学で〈脱魔術化〉するわけでもなく、われわれの常識的生活において両者が共有できる同一の世界観を明示するのだが、その要は「世の真実は、人間という不完全な生き物の視点でしか現れてこない」という発想、つまり「世界はこうあるべし。こうあった時、それは最も美しく心地よい」という神の視点から人間の視点へと「下降」していく「人間化」に見て取れる。著者は近年の脳科学の進展に大きな期待を抱くのだが、それにあわせて表現すれば、「脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく」ことが「科学の人間化」であり、それが釈迦の悟りという神秘性を排した仏教の姿勢と合致するのであり、今後、仏教と科学は歩みを共にしていくだろうというのが著者の基本的主張である。

□物理学と進化論における「人間化」の歩み
 第一章の物理学と第二章の進化論を通じて、この両分野においてともに史的展開を通じて神の視点から人間の視点へと「人間化」が見られると著者は説く。その語り口はきわめて滑らかにして力強い。全編を通じて「人間化」という背骨が貫通しているため、論旨がぶれず、結果的にわかりやすさに至っている。たとえば物理学においては、遠隔力を容認できなかったガリレイとデカルト、重力という遠隔力を取り入れたが光や磁力を理解できなかったニュートン、光に注目し、運動の絶対軸として永らえていたエーテル概念を最終的に排除したアインシュタイン。このアインシュタインによる相対性理論はニュートン力学の神の視点を最終的に突き崩すものだった。しかしそのアインシュタインも、世界は本質的に不確定であり、確率的な存在であるという量子力学を理解できなかった。著者はこのような物理学の歩みを敷衍し、いまやわれわれは、ねじれて相対的な時空間のなかで、自分の存在さえ確実に把握できない波人間になってしまったのであり、科学がさらに進化すれば一層奇妙な世界が現れてくると予言する。
 生物学に関して著者はラマルク、ダーウィンとつづく進化論を、人間と動物の連続性を認めたすぐれた学説と認め、ことにダーウィンの自然淘汰と突然変異の発想を神の視点から決定的な離脱をもたらしたものとして強く肯定する。しかし他方で著者は、よりすぐれたものが勝ち残る自然淘汰説に西洋の自己優越視が写りこんでいるがゆえに、ダーウィンにおいてさえ神からの離脱が不徹底だとみなし、ここに木村資生の中立説を要請する。木村によると遺伝子次元の進化とは良い変化だけが選び取られる(それは中立的な変化は消滅することを意味する)のではなく、むしろ生存に都合の悪いものだけが排除され、その他の中立的な変化はどんどん蓄積され、偶然の産物としてのわれわれを形成していくことになる。木村の中立説はこの「すぐれたもの」の否定と偶然性の導入によって、そして実験の蓄積により学界の定説となることにより、事実上進化論から神の視点を駆逐したものとして最高度に評価される。

□法則性だけの世界
 さらに著者は脳科学の進展がこの傾向を推進していくものと考えている。「今までは外部世界そのものの直接記述だと考えられてきた科学が、実際には外部世界そのものと、それを特定のフィルターによって人間独自の体系へと偏向させる脳との共同作業によって作られるものだということが広く承認されることで、外部世界にアプローチする方法が根本的に変わってくる」というのだ。これは先に評者がアフォーダンスからアフォードされた情報と唯識の構造との(強引な、あるいは、誤読的な)接合に期待した将来的展開を想起させるものであろう。とはいえ著者は、ここで神のような超越性を導入することには反対であり、あくまで読み取られるべきは何らかの法則性であって、かつ、そこにおいてこそ仏教と科学が絶対者のいない法則性だけの世界で自己のアイデンティティーをどうやって確立していくかという話題を共有できるのだとする。
 そして著者は断言する。「キリスト教を真っ正直に信仰しながら科学的に生きることは不可能である」と。キリスト教を信じるものが科学的に生きようとすれば、たとえば「神は人格として存在するのではなく、宇宙法則としてある。法則それ自体が神なのだ」といった「中途半端」な「噛み合わせ」で満足するしかないという。しかしこのような妥協は科学への遠慮を繰り返す中で教義の後退を招き、結局のところ破綻すると著者は語る。そして最終的な予言として「仏教は科学と一体化する」と告げるのである。

□キリスト教の行方
 量子力学における確率的存在性と木村進化論における中立性(優越者生存説の否定および偶然性の理論)。現代科学理論はたしかに通念的なキリスト教的世界観を痛打したように思われる。絶対者とは法則性を変更できる存在と考えられるが、著者が挙げたような科学と共存を図るキリスト教信仰者の「中途半端」な神観に思いを寄せれば、たしかに最初の一撃だけに神の存在意義が顕わであるとすれば、その後の沈黙は神の無用さ、あるいは神の死を想像させる。また、科学との整合性に関して仏教がキリスト教よりも巧みで、高い精度を持つのだとすれば、絶対者と(科学的)法則性という二極をもつキリスト教は、法則性一本で説明可能な仏教に比べて余計な要素を保持していることになり、「オッカムの剃刀」の原則に従って、仏教より劣ったものになってしまうのかもしれない。
 しかし著者も本書の末尾で触れるように、仏教も大乗仏教となると超越者としての仏を備える救済宗教となり、キリスト教に似てくる。また科学に似ているはずの仏教を保持する上座仏教の地域で、科学の人間化が今後他の地域に増して進展していくという予想も現状ではしがたい(ただし、ヴィパッサナー瞑想の普及と将来的展開には十分な注目が必要だと思われる)。「人間化」を推し進め、超越者を排除する著者の主張が、どこか非人間的で、「天使的誤謬」を思い起こさせはしまいか。しかしこれはあくまで歴史的な次元での批判に留まるであろう。瑣末な点を挙げれば、釈尊の仏教にしても、その思想は輪廻転生説を乗り越えるものとしてではあれ不可欠の背景としており、それと科学的思考との整合性は本書ではまったく扱われていないという問題が現われてこよう。しかしこれとても輪廻転生説が一種の法則であるかぎり、やはり著者の主張にはそれなりに筋が通っていると言えるだろう。
 もちろん科学の本質を「人間化」という一点に絞った著者の前提そのものに問題を見出すことで、批判を行うこともできるだろう。新たな真理が発見される際に、かならず新たな謎が提起されるという真実に目を留めることもできる。しかしそれでも新たな発見が全体として人間化の傾向を示しているのなら、著者の主張は〈それなりの〉妥当性は保持するだろう(評者の極めて浅薄な科学的知識では、たとえばガリレオから量子力学までの歴史のなかに、伝統的な教義・神学に添った形での「神化」を読み取ることができない・・・)。総じて、キリスト教の分は悪そうだ。
しかし、キリスト教は若い宗教でもある。仏教ほどに潜在する多様性を展開しきれていないと評者は考えている。つまりキリスト教は今後そうした潜在する〈別の顔〉を顕在化させていくことができるかもしれない。そもそも「よりすぐれたものが生き残る」という発想が著者によればキリスト教的なものとされるが、それはむしろ〈ヨーロッパ的〉あるいは典型としては〈近代的〉というべきであって、かならずしも「キリスト教的」とは言い切れない。歴史的にそのような脱近代的〈非ヨーロッパ的キリスト教〉はほとんど存在感がないため、まだ思考実験的な域を出ていないかもしれないが、たとえば現代日本における仏教とキリスト教との宗教哲学的な対話においては、神を〈絶対無〉という発想から根源的に捉えなおそうという〈革命的〉な方向も進展しつつあり、それが科学とどのような融合を果たすかは、いまだ未知数であるものの、いや逆に未知であるがゆえに、期待出来るものと思われる。
ともあれ、〈仏教的キリスト教〉(それは「人間化」を受容しうるものなら、神学というよりも人間学的な性格を前面に押し出すものとなろう)が成立しうるかいなかという重大な宗教哲学的難問を考えるにあたっても、科学と仏教との調和・統合という著者の問題提起はきわめて大きなインパクトを与えているものと思われる。キリスト教側から幅広い応答を期待したい。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)

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