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2008年11月20日 (木)

【書評】河合隼雄、中沢新一著『仏教が好き!』(朝日新聞社、2003年)

□「仏教が好き」
Gpss081120b  私事で恐縮だが、わたしは仏教が好きである。他方、困ったことにカトリックの洗礼を受けた信徒である。一方は絶対者を持たず、法則を発見し、バランスをとりながら無我を求め、他方は超越者である神からの救いを希求する。前著(佐々木閑著『犀の角たち』)を評した際、語弊を恐れずに〈仏教的キリスト教〉への挑戦が現代日本の宗教哲学界で試みられているとは言ったものの、やはりこの二つの宗教は教義、儀礼、歴史等々において大きく異なり、安易な融合を許さない。

 とはいえ、実をいえば日本のキリスト者の中で「仏教が好き」な人はかなり多いというのが、正直な印象である(たとえば、カトリック司祭の故押田成人師は「私はキリストに出会った仏教徒である」とすら言っている)。ここで「突破口」を開くには、より柔軟性が高いと思われる仏教側で、しかも既成仏教を確立した最終形態とみなさない発想の持ち主の思想に学ぶことが有益だと考えることは妥当だろう。本書はそうした思想の持ち主による対談である。

□大日如来の吐息
 本書の最終章で著者たちは科学について意見を交わしている。題して「大日如来の吐息」。副題として「科学について」が掲げられている。先の佐々木閑氏は仏教と科学の共通点を両者の世界観における「人間化」に求めたが、本書において著者たちはこうした世界観の調和ではなく、前衛的な事例の類似性において両者の調和を〈予言的〉に看て取っている。たとえばオーストラリアのアボリジニの結婚規則が数学的に群論と見事に合致することや、量子論のハイゼンベルクに見出される「マトリックス」的思考が密教の曼荼羅に類似することなどが挙げられている。読者諸賢にもおそらくおなじみの、まさに〈中沢節〉満開である。しかもこれらの発想の源泉に著者ことに中沢氏は吉本隆明氏の「アフリカ的段階」というモチーフと故井筒俊彦氏の神秘主義研究を置いている。前者は、ヘーゲル哲学で世界史の枠外に放置されたアフリカ的(プレ・アジア的)世界を人類史にとっての母型概念(原型)とみなすことによって、世界史の理解の転倒をもたらそうとする概念であり、後者はイスラーム研究の大家によって、イスラームのみならず大乗仏教やギリシア哲学の深層に見出されたトランス・レリジョナルな神秘性である。このような発想に助けられて著者たち、ことに中沢氏が探求する仏教とは、つねに固定化される普遍性(それは著者たちによってきわめて「西洋的」なものとされる)から逸脱しつづけ、「一見すると見知らぬ仏教のように見えて、歴史において現実になったあらゆる仏教の表現形態がそこから生まれ出てくる、アジアの思想的源泉近くに生えている『原仏教』」を指すのである。

□夢から覚醒した後は・・・
 本書においては聞き役に徹している河合氏(故人)がユング心理学の流れにある心理学者しかも療法家であることは示唆深い。中沢氏のいう「原仏教」は決して体系化できないものであり(実際中沢氏は「『原仏教』は自らが夢の時間を生きる存在」であると語っている)、われわれが現実で出会うさまざまな現象の影で垣間見るもの、しかもそれなしでは世界の深みが失われてしまうようなものであろう。このような原事実の次元を語り合うには、たしかに理論体系の整合性を探求せざるを得ない一般的な自然科学者よりも、河合氏のような不定形で、またつねに特殊的なものとして現れる心理現象を扱う療法家のほうが、より創造的な役割を果たしうるであろう。総じて著者たちは現代の学問体制における〈解体者〉として活躍してきたが、わたしのように近代人にして、歴史的に西洋的なキリスト教の世界に馴染んできた人間が「好き!」と叫ぶことができるようになるには、こうした夢見心地の、良い意味での〈遊び場〉がまず必要であることは否定できないと思われる。
 さて、こういった大日如来のぽわぁっとした吐息に満たされて予言的描写を味わった後、われわれはいったいどこに着地すればよいのか。おそらく考えられる話題としてまず〈死〉が考えられるだろう。いかなる宗教であれ、死を問わないものはない。科学においても医学のような使命志向的科学はもとより、物理学のように特定の日常面での目的をもたないものでも、ビッグバンの果てに起こりうるかもしれない宇宙の死滅は大きなテーマであろう。
しかし、死はある意味で扱いやすい。それは生物にとって自然の流れであり、エントロピーの法則に合致しているものでもある。ロボットに自爆機能を埋め込むことも比較的簡単であろう。むしろ真の神秘は〈生誕〉ではなかろうか。たとえばロボット工学においてロボットは生殖機能を持つことができるのであろうか。自己の外部から素材を集め、それに自己のソフトをコピーするだけでは製作とはいえても、新たな生命の誕生とは言いがたい。自己を犠牲にしつつ、それを喜び、かつ、種の保存に合致する営みとしての生誕。そして中沢氏お得意の密教に顕著な〈歓喜〉。さらにはキリスト教の世界ではつねに暴走しがちな終末論から教会を守ってきた〈創造論〉の刷新。そうした喜びの交差の中で、わたしも堂々と「仏教が好き」と叫んでみたい。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)

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