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2008年11月17日 (月)

【書評】佐々木正人著『アフォーダンス――新しい認知の理論』(岩波書店、1994年)

□定評ある入門書
Gpss081117_2   学術の世界といえども流行り廃れの速い日本では、数年前にさかんに耳にした「アフォーダンス」という概念も今ではさほど聞くことがない。しかしこのような底の浅い体質にも負けず密かに力を蓄え、いずれ思想界に留まらないインパクトを与える例は多くあった。思えばノーベル賞などの高水準の栄誉は実際の発見からはかなり年月を経ってはじめて与えられるのが通例であり、いったん受賞が決まればその影響は自然科学の領域をはるかに超える。アフォーダンス理論にしても、まさに戦闘機パイロットの訓練から本格的に展開した応用性を予期した営みの成果であり、主に産業界において情報のヒューマンインタフェイスが重要な要素になっていることもあり、人間の知覚理論の革命でもあるアフォーダンス理論が秘める可能性は、素人目に見てもかなり高いものだと思われる。
 本書はアフォーダンス理論の研究者としてわが国で第一人者である佐々木正人氏の手になり、入門書として定評のあるものである(1994年に刊行され、2008年には第24刷が出ている)。まず目次を挙げておこう。

 プロローグ なぜいまアフォーダンスなのか?
 1 ギブソンの歩み
 2 情報は光の中にある
 3 エコロジカル・リアリズム
 4 知覚するシステム
 5 共鳴・同調の原理
 エピローグ リアリティーのデザイン


 総頁数117の小さな書物であるが、その内容は充実しており、なによりじつにわかりやすい。多くの好意的な書評がすでに発表されているのもうなずける。

□アフォーダンスとは何か
 人工知能をもつロボットを開発する際には深刻な問題が数多く発生するが、その典型的なものとして、ある行為に関連することと関連しないことを効率的に見分けるにはどのようにすればよいのかという「フレーム問題」がある。古典的なロボット学では、こうした判断を実行できるようにあらかじめロボットの知能にプログラムを書き込むことを目標としたが、人間が通常受容判断する情報は膨大であり、また情報もつ価値の多様性と複雑さは到底事前のプログラミングでは対処できない規模であることもあって、こうした事前プログラミングの方向性は事実上挫折していると著者は言う。要するにデカルト的な発想に立つこうした古典的認知理論、つまり人間は環境から刺激を受け、それを脳の中で処理して意味ある方法を得ているという考えでは対応できないのである。
 アメリカの心理学者であるジェームズ・ギブソンは発想をまったく変えて、情報は人間を取り巻く環境そのものの中に実在しているという「生態学的認識論」を主張した。
 アフォーダンスとは事物の物理的性質ではなく、また知覚者の主観が構成するものでもなく、環境が動物に提供する「価値」のことである。ギブソンは空軍から依頼された戦闘機パイロットの訓練システムを開発する中で、とくに着陸というきわめて複雑な行為をパイロットが修得出来るのは、あらかじめそれに耐えうるようなプログラムが彼の脳内に出来上がるといった発想では説明できないという困難に直面する。またその過程で実効性のあるシステム開発には、実験室で光源を一点に保ったうえで網膜に映った映像からのみ視覚を理解するような従来のやり方では無理であることにも気づく。さらに鳥にせよカエルにせよ実に巧みに跳躍と着地を行うが、大半の動物における眼球構造は人間のものとは非常に異なっており、そこからも人間の眼球を解剖学的にモデル化するだけでは視覚という知覚を把握できないという結論に至った。
 模索を繰り返す中でギブソンは、あらゆる方位から来る光の交差という「包囲光」なる着想を持つに至る。放射光が構造を持たず、眼への物理的な「刺激」でしかないのに対し、包囲光はそれ自体が視覚にとっての「情報」となるという発想である。さらに人いや動物は動きから情報を得ている点に注目する。形ではなく変形こそが重要とされている。つまり変化こそが環境の中で不変を明らかにするというのだ。
 ちなみにアフォーダンス理論では動物は情報に「反応」するものではなく、情報を環境として「探索」し、ピックアップしていると考える。つまりアフォーダンスは刺激のように「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」「発見する」ものだとされるのだ。そしてアフォーダンスが環境の中に実在しているならば、それは知覚者の主観とは無関係に、たとえば装置を活用した疑似体験などを通じて誰でも獲得可能な「公共的」なものともされる(体重50キログラムの人物が50キログラムの重しを背負い、諸行為を重ねるうちに体重100キログラムの人物が得ているアフォーダンスを獲得できるという例が挙げられている)。
 さらにギブソンはロボット工学などで想定されていた「フィードバック機能」は誤りを判断するための「知識」を事前にもたねばならないがゆえに、運動における膨大な自由度をどのように統御するかという問題に関しては解決たりえないだと語り、それを受けて本書の著者もこの見解を補うように、神経系の伝達速度はわれわれが考えているほどじつは速くはなく、フィードバックだけでは適切な行為をなしえない点に言及する。
そこで替わって著者が提唱するのが、運動単位を筋や間接といった個々の要素として理解するのではなく、そのマクロな「結合」とみなすことによって成立する「協応構造」である。あらゆる動作機構は制御すべき要素間に協応構造をつくりあげ、自由度を大幅に減少させることでスムーズな発動を実現しているというのである。著者は犬の歩き方を例にとり、リズムから逸脱する脚があると、リズムがそれを引き込んで、すぐもとのリズムを回復する事例を紹介している。ともあれ、古典的なモデルでは運動の制御は事前に作られるプランによってなされるのに対して、協応構造のモデルでは「制御」が複雑な運動システムそれ自体のダイナミックなふるまいに起因しており、運動制御のプランは状況に依存した「事後的」なものと主張されるのだ。それはまた「因果」にかわる「共鳴・同調」モデルの提唱となっている。

□唯識の発想と比較して
 長々と稚拙な要約を書き連ねたが、読者諸賢はこれに懲りず、ぜひ本書を手にとってお読みいただきたい。それにしても、「留意すべき必要がないものを瞬間的に見抜く」ということがいかに高度な内容を備えており、かつその統御が事後的に、あるいはより正確にはおそらく同時相即的に生起することにはあらためて驚かされる。何もしない、するっと流す(スルーする)といった一見消極的な行為(これはアフォーダンス理論では刺激に対する反応ではなく、選択という行為であることを思い出してほしい)はときに何かを行うことに増して、われわれが生を営む上で必要欠くべからざることなのである。
 刺激と情報を区別する発想も評者にはまさしく「刺激的な情報」(?)だった。というのも最近個人的な関心もあって唯識仏教の基礎を学び始めているのだが、アフォーダンス理論は唯識の理論と緊張関係にあるように思えるからである。
唯識とは大乗仏教の深層心理学といえるもので、「唯だ識のみが有る」という存在観を基本として、識を変革することによって迷いから悟りに至ろうとする実践的な教理をさす(横山紘一『唯識塾』HPから)。この教えに従えば、わたしたちは認識おいて自分の外へ出ることは出来ず、ゆえに認識されるものはすべてわれわれの識によって織り成されたイメージである。つまり外界にはなにも存在しない「唯識無境」を説くのだが、たとえばなんらかのものを認識する際、目などの感覚が捉える自然と、最も深層の心理である阿頼耶識が心の深いところで認識し続けている阿頼耶識の対象としてのものとの二つがあるとされる(横山『「唯識」という生き方』より取意)。唯識の教理用語を使えば、前者は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五感と言葉によって概念的に思考する意識を加えた六識からなる表層心に相当し、後者は深層に働く自我執着心である末那識と最深層の根本心たる阿頼耶識からなる深層心とされる。
 アフォーダンスはこの前者である表層心に関することになろうが、アフォーダンスが主観ではなく実在する(しかも公共的であり、また知覚者の記憶にも依拠しない)価値であるかぎり、そもそも唯識の理論からは逸脱してしまう。なぜなら「唯識無境」に反するからである。アフォーダンス理論では唯識では想定されない「自分の外」から実在たる情報が到来するのであり、環境的知覚と自己知覚が融合的に相互形成しあうのだ(ちなみに著者は本書の「あとがき」で、「あせらなくてもいい。情報は環境に実在していて、お前が発見するのをいつまでも待っている」というギブソンの声が聞こえるような気がすると述べている)。

□情報としての「神」と新しいキリスト教心理学の可能性
 この際語弊を恐れず大胆に、この外界から到来する情報を神からの汎在神論的「啓示」と理解したら、どのような発想が生まれるだろうか。キリスト教学の世界では従来存在論的な神学はいわば過剰なまでに発展してきたものの、認識論の性格は弱かった。キリスト教心理学という領域もないわけではないが、アウグスティヌスはもとより中世スコラ神学やさまざまな神秘主義に見逃せない事例があるものの、ことに近代以降においては神がいかに認識されるのかという根本問題には深入りせず(フロイト・ショックの大きさを暗示しているのかもしれない)、むしろパストラルケア的な実践神学の一応用分野にすぎなかった。しかしもし神の啓示がひとつの情報として包囲光としてわれわれを包み、形ではなく動きによってわれわれに知覚されるものならば、ここから新しい自然神学を模索することは出来るのではないか。評者としてはおそらく神が極端に人格化される前のヘブライズムにはこうした感覚が生きていたように思うのだが、いかだだろうか(その意味でユダヤ教神秘主義は魅力的な考察対象だろう)。また人間は神の知性を完全にプログラムとして内在化させることはできないだろうが、共鳴・同調モデルに則った良い信仰モデルの形成は可能かもしれない。
 他方唯識に関していえば、表層心において非唯識的な啓示という情報に介入されるとしても、そのことがただちに表層と深層の二重構造自体を破壊するわけではないだろう。啓示は違和感(ときには精神疾患に類する病状を呈するかもしれないが)を伴いながら降下し、深層心において種子となり、やがてそれが熟成した結果として阿頼耶識を善化する智慧(大円鏡智)と成就するのかもしれない。キリスト教が仏教に比肩するほどの心理学を事実上発展さてこなかっただけに、こうした唯識的な構造の応用は非常に貴重なものと思われる。
 評者のこのような思いつきは知覚理論の枠組みを逸脱した密かな形而上学の導入として、単純な誤謬だと指弾されるべきなのかもしれない。しかしながら、脳科学や心理学がかつて宗教によって独占されてきたような話題を解釈しはじめた知的状況にあり、さらにコンピュータやロボットときわめて近しい実生活を送っている現代の宗教者にとって、いささか無謀とはいえ大胆な知の冒険に船出することは、もはや無視できない課題ではないだろうか。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)

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