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2008年10月 1日 (水)

【書評】前野隆司著『脳はなぜ「心」を作ったのか――「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房、2004年)、同『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?――ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』(技術評論社、2007年)<2>

前回からの続きです。)

□心をもったロボットは可能か?
Gpss081001_2  さて、心をもったロボットはどうすれば可能になるのか。換言すれば、目的を自律的に形成できる「小びと」をいかに作成しうるのかが問題となる。一つに、あらかじめあらゆるニューラルネットワークを綿密に作りこんでいくという方法が挙げられるが、それでは人間並みの知情意をもつロボットを作成するためには膨大な時間を要することになろう。二つには、ロボットの心の原型を作っておいて、これをその後のロボットの経験にしたがって成長させていくやり方がある。つまりロボットの赤ちゃんの脳を作っておいて、これを学習させ成長させていくのである。この成長にあたっては進化的計算たとえば遺伝的アルゴリズムといった方法が適用できる。ニューラルネットワークにはそもそも完成された統御するソフトウェアプログラムは必要なく、シナプス荷重をチューニングすることで正しい計算ができるだけでよいという。

□釈迦や老荘思想のニヒリズム
 前野氏はこうした受動意識仮説は世界の思想史を省みれば決して目新しいものではないという。たとえば『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』でことに老荘思想や仏教に類似するものを見出せる。まず物と心の関係においては一元論と二元論の対立があるが、それは形而上学的で相互に非共約的であり、あえていえばどちらかを好みで選ぶもの(著者は脳という器官を離れた霊魂的なものを認めず、一元論に立つと言う)であるが、釈迦の覚醒つまり悟りではこうした形而上学的選択にとらわれることの危険が見抜かれており(なぜなら悩む主体がそもそも錯覚の産物だから)、ゆえに原始仏教は不毛な論争を事前に回避しているすぐれた発想だと高く評価されている。また老荘思想の中核的思想である「無為自然」は知ることにとらわれない態度を求めるものであり、意識が無意識に従属するという受動性を示すものとされ、やはり高い評価を得ている。他方、キリスト教やイスラームでは人間を支配統御する「神」が設定され、かつ、ことにキリスト教においては自由意志に顕著なように意識の能動性を主張しすぎるものとして否定的な評価が目立つ。もっとも、その後の西洋哲学においては、長らくこのようなキリスト教的な性格を引き継いできたものの、現象学、構造主義、ポストモダンという流れの中で徐々に釈迦や老荘思想のニヒリズムに追いついてきたと著者は結論付けている。

□無意識の流れの重要性
 キリスト教の世界に馴染んできた評者には以上のような著者の発想には戸惑いを隠せないのだが、他方でまさに新しい知的刺激をそこに感じたことも事実である。思弁的な教相判釈に走らずとも、たしかに日ごろの思考をはじめとする諸行為にあたって、「私」はすべてを統御しているとはとても考えられない。省みれば、意識していないときこそ物事はスムーズに進む。生体反応である呼吸などはそもそも意識とは別の次元に属すものであるし(実際、息の吸う・吐くを「意識」したら、とたんに「息苦しく」なってしまう)、歩行する際にも「右、左」と運動会のようにいちいち号令を掛けているわけではない。また日常において高く評価されている熟練性においても無意識の流れは重要である。「からだがおぼえる」とはまさに無意識の次元にまで見事に到達した境地をさすのであろう。

□無意識とのバランスを確保する装置としての宗教
 では意識を再評価する契機はどこにあるのか。それは著者がエピソード記憶をもつほうが生存にあたって便利であると語る点に見出せるだろう(このエピソード記憶が弱体化した状態は認知症患者に観察できる)。この利便性はより人間的な、つまり社会的な状況で妥当する。つまり社会が高度で複雑化するほど、意識の役割は重要なものとなる。そして社会とは罰則を備えた多様な慣習の総体であり、それは言葉によって決定的に媒介される。しかし、この言葉化と不可分な社会は、修正困難な歴史や法体系を作り上げ、どこか先の「ひらめき」的な思考とは異なる生活を持つようである。おそらく宗教はこうした意識が過剰に肥大し、無意識のネットワークにおいて障害となることを極力避けるために、言葉を逆説的に用いることで無意識とのバランスを確保する装置なのであろう。

□無意識への郷愁の高まり
 この「否定される」という機制を保持している限り、キリスト教やイスラームといった宗教もまだ救いようがある(存在価値を保持している)ように思えるのだが。評者にとってたとえば著者の視点から指摘されるキリスト教の問題点は、イエスや使徒たちの言動において根本的に内在するものというよりもむしろ、その言説体系が高度に規範化され、さらには教会という形態で制度化される過程でこの逆説性を喪失したという病理構造にこそまずは見出されるべきであるように思われる。いまこのような逆説性という破壊力をもつ原宗教性が忘れられ、いな、それどこか宗教そのものがその居場所を失って久しい。われわれは生の形で社会と直面しなくてはならないのだ。こうした状況において、無意識への郷愁(と要請)が加速度的に高まっているとは言えないだろうか。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)

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