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2008年3月 7日 (金)

【記事紹介】國府田隆夫「科学・哲学、そして宗教の間の対話を求めて―科学者は現代の情況に免責か?」(第3回「親鸞思想の解明」シンポジウム)

國府田隆夫「科学・哲学、そして宗教の間の対話を求めて―科学者は現代の情況に免責か?」(第3回「親鸞思想の解明」シンポジウム)

□「三つの知の領域」の重層
Gpss080307_3  物理学者(物性物理学・応用物理学専攻)で東京大学名誉教授の國府田隆夫氏が、真宗大谷派の研究機関である親鸞仏教センター(東京)で開催されたシンポジウムで行なった基調講演である(『現代と親鸞』第11号所収、2006年)。
 國府田氏は、知をめぐる情況は、庶民の知、職業人の知、文化人の知の「三つの知の領域」の重層として形成されており、その各層のあいだで相互に葛藤があると主張する。庶民の知についてはごく一般的な庶民が、職業人に関しては企業経営者、文化人については宗教者や技術者が念頭に置かれており、いずれもごく世間一般でわれわれが出会う人たちばかりである。
 この類別を挙げる際、著者はフーテンの寅さんで有名な映画「男はつらいよ」シリーズを挙げている。極端に専門化した科学者の世界とは異なり、こうしたいわば俗の知性においては、身近な異種同士のあいだで情愛と信頼が生まれ、個別知の領域がなにほどかの叡智に高められていると著者は語っている。

□対話の域を超える事態の発生
 他方で昨今の科学の最前線は、もはやこうした牧歌的ともいえる知の調和を想起させえない孤高の境位に至ってしまった。そしてこの俗の知性世界からの離脱は、核問題に典型的な科学の有責性を自覚するにあたって、〈不感症〉とでもいうべき事態を科学者にもたらしていると著者は警告を発する。
 他方、世俗の側からは「アインシュタインが全部悪い!」といった糾弾が起こってくるが(ただし、ここでの「アインシュタイン」とは著者によれば固有名詞ではなく、偶像化された物理学者の代名詞である)、このような対話の域を超える事態に対して、「自分たちが直面している難局を専門家や為政者だけに任せてはいられない。自分自身の意見を自分の言葉で言わねばならない」という「異なった『知の世界』に住む人たち」の声に科学者は耳を澄ますべきだと國府田氏は自戒する。

□レヴィナスのいう「非常識なまでの有責性」
 そして理性的な対話を超える、倫理的深淵を想起するにあたって著者は、かつて死の直前に科学者の社会的責任性を問いかけた唐木順三、さらには「非常識なまでの有責性を問う」エマニュエル・レヴィナスの思想に着目することを提唱する。著者が必要とする宗教的超越性は詳しく語られていないが、ことにレヴィナスの「非常識」が著者にとり宗教性を予覚させるものとして挙げられていることは、たしかだと思われる。

□〈コモンセンス〉という発想
 こうした極限性や、あるいは一つ前のトピックで扱われていたES細胞やiPS細胞の問題に顕著な始原性といった難問において筆者の念頭に浮かぶのは、〈コモンセンス〉という発想である。この概念が意味するのは、なんらかの体系を構築しようとする意志というよりもむしろ、身の危険を察知したうえで、その危険を回避すること、そして自らが危険な情況を生み出す源泉にならないよう自身を律する感性であろう(その点で、英語の“common sense”を「常識」と訳するのは必ずしも適切とはいえないと思われる)。それはソクラテスが誤謬に陥る寸前に聞き取った、「……するなかれ」というダイモニオンの内的禁止・否定命令に通じるものではなかろうか。
 極限や始原におけるこの厳しい否定性を伴わずして、科学や宗教の美的感性に自己同一化することは、学問の果たすべき倫理性(社会的有責性)の探求・自覚にとって深刻な阻害とならざるをえないだろう。あるいは視点を移せば、美が聖(崇高)にいたるためには、こうした禁止が欠かせないという周知の話と解することもできよう。

□内面から語り掛ける禁止
 ともあれ、この禁止は内面から語り掛けるものでない限り、真実性を欠く。われわれにおいては、たずさわる領域が宗教であれ、科学であれ、自分ら専門家として仕事をしてきたなかで、〈何に最も抵抗を感じてきたのか〉、〈どこがいまでも正直好きになれないのか〉といった点に関する真摯な〈懺悔〉が問われている。〈告白〉はいまだしとしても、まずこの懺悔的内省の手がかりを考えていきたいと個人的に考えるしだいである。(こうした禁止の呼びかけは、レヴィナスを持ち出さずともたしかに「他者」の問題と不可分であると考えられるが、もうすこし自己内面/深淵に向かって掘り下げる必要があろうし、だからこそ「こころ」も重要でありつづけると考えている。)
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)

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