« 【書評】レイチェル・カーソン著(上遠恵子訳、森本二太郎写真)『センス・オブ・ワンダー』(新潮社、1996年) | トップページ | 【新刊紹介】理化学研究所 脳科学総合研究センター編『脳研究の最前線』上下(講談社ブルーバックス、2007年) »

2008年3月20日 (木)

背景を視野に収めた思考に向けて

□高い集中度への戸惑い
Gpss080332a_3 日常何気なく気付いている事態に明確な説明を与え、納得するというプロセスにおいて、科学のもつ力と意義は大きい。
 先日の投稿(國府田氏への論評)で、「自分ら専門家として仕事をしてきたなかで、〈何に最も抵抗を感じてきたのか〉、〈どこがいまでも正直好きになれないのか〉といった点に関する真摯な〈懺悔〉が問われている」といささか大げさな物言いをしたが、言い出しっぺの責任を果たすべくわが身を振り返って思いつくこととして、いわゆる「一神教」とされるキリスト教の神がもつ、高い集中度への戸惑いというものがある。つまり信仰においても、神学的な思索においても神への高い集中度が当然ながら要求されるものの、徹しきれず、いささか無理を通して論考を書き上げても、どこかしらに重要な要素を見捨てたような思いがして、不安にさいなまれるという経験を何となく重ねてきた。

□全体的感情に敏感な日本人?
 こうした事情に対する一つの説明となりうる科学的仮説を知る手がかりとして、科学情報サイトWIRED VISIONに掲載された「日本人は『個人より全体的感情に敏感』」(2008年3月11日付記事)を挙げることができるかもしれない。

click here

非常にわかりやすい内容なので、ぜひお読みいただきたいが、「画像を見る時、西洋文化で育った人は、中心に置かれた題材をその周囲のものと切り離して捉えるが、東アジアの人は同じ画像を全体的に見る」というのがその結論である。西洋人の場合、中心人物だけに視線を〈自然に〉限定して背景が目に入らないのに対して、東洋人(この実験の場合は日本人)の場合は背景が印象の内容に影響を与えるのだ。言うまでもなく、これは意志の問題ではなく反応の次元での出来事であり、理性的な思考に先行する。したがって、日本人の場合、すっきりしたイメージが形成されるのは、かならずその形成過程で背景に目が行くことから、中心と背景が調和しているときに限られることになる。そしておそらく背景の要素が多いほど、得られた調和は重みを増すことであろう。

□わたしの映像的思索
 自分自身へと目を向けると、筆者は幼少時より時間的なものよりも空間的なものに惹かれることが多かった。音楽よりも美術のほうがはるかに魅力的だったし、代数よりも幾何(軌跡)、大好きだった歴史科目も筆者にとっては、クロニクルな事件史的な変遷への関心よりも、遺跡、風景、絵画から感得される多分に情緒的なイメージの想起に彩られたものだった。この基本的な性格はのちに信仰生活に入り、そのなかで言語命題を扱う哲学や神学を学ぶ場合にも保持され、現在に至っている(脳神経的にそうした回路が形成されているのか)。この情況は焦点を一点に絞る(翻訳物の)神学や、さらには西洋的な信仰諸形態とのあいだでどうしても齟齬をきたしてしまうのである。たとえば強烈なインパクトを持つ十字架上のイエス像に(復活と合わせて)救済の根拠を見出しつつも、どうしてもなにかしらの不安を覚えてしまう。

□アンドレイ・ルブリョフのイコン「三位一体」
 この不安を上記の記事は、それなりに説明してくれる。わたしの映像的思索はつねに背景を読み込み、中心に神を持つものの同時に複数の神的なものを予想し、それらのあいだで調和ないし均衡を〈おのずと〉志向する。(こうした事態は、日本人の美的感性に依拠して思索する神学者のあいだでかなり広汎に見られ、たとえば筆者が敬愛する俊英、阿部仲麻呂師の壮大な『信仰の美学』にその典型的な事例を見出せる。)
 いま筆者の机の上にはアンドレイ・ルブリョフの有名なイコン「三位一体」のコピーが飾られている。キリスト教美術の名品は無数に数えられようが、ただ一点を撰べと言われれば筆者の場合この一枚になる。
Gpss080320b_3  この画像には背景といえるほどのものは特段描かれていない(か、あるいはほとんど消滅してしまっている)が、有翼の天使によって象徴された三つの位格が奥行きを醸し出し、その結果眼差しの集中という〈苦役〉から筆者を救ってくれる。このイコンに導かれて、筆者の研究はなにを学ぶにせよ、全体と背景の読み込みという迂遠な道筋を今後とも辿っていくことだろう。それは伝統的あるいは正統的な神学研究者としては一種の不完全性ともいうべき痛苦の棘を身に負うことをときに意味しようが、神学と同時に宗教学に配慮する道を歩む以上、やはり万事につけ背景を読み込み、調和さらにはなによりも新展開への一歩になる〈調和の破れ〉を見出そうとしていくことになるだろう。その際、それにつられてある程度動揺することは避けられないものと覚悟している。もっとも、学術論考を打ち出す場合は学の責任として、自由連想に陥らぬよう自戒しなくてはならないのは当然のことである。

□神経科学的な認識パターンの研究へ
宗教的多元主義、一神教と多神教、聖霊論、そして当然ながら宗教間対話。このような話題において近年さまざまな取り組みがなされているが、その学術的営為を含む生活世界での〈リアリティ〉を自覚するうえで、神経科学的な認識パターンの研究は、新たな〈補助線〉を提供してくれることだろう。漠然とした記憶で恐縮だが、中央公論新社から刊行された『哲学の歴史』シリーズを記念するウェッブ上の対談において、かの茂木健一郎氏が日本の哲学に対しては西洋では果たせなかった感情(あるいは「情緒」だったか・・・)の哲学の進展を期待したいと述べていた。われわれのGPSSプロジェクトもそうした流れに棹差すものたりえたら、フロンティア開拓の担い手としてトランスディシプリナリな展開を念頭に協働していけるかもしれない。そしてなにより、視線の揺れに耐え忍ぶ一神学/宗教学徒に安らぎを与えてくれるだろう。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)

<補足>
 茂木氏の日本哲学への期待は、正確には「生命のはかなさ」を説く生命哲学の構築であり、その鍵として「もののあはれ」が注目されていることがわかったので、ここに補足しておきたい。
 オリジナルな発言は以下のサイトをご覧ください。(2008.03.21)
 →click here

|

« 【書評】レイチェル・カーソン著(上遠恵子訳、森本二太郎写真)『センス・オブ・ワンダー』(新潮社、1996年) | トップページ | 【新刊紹介】理化学研究所 脳科学総合研究センター編『脳研究の最前線』上下(講談社ブルーバックス、2007年) »

コメント

拙著を御理解くださり感謝いたします。
今後ともどうぞよろしくおねがいします。
阿部仲麻呂 2008年4月9日(水)

投稿: 阿部仲麻呂 | 2008年4月 9日 (水) 02:52

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/203998/40574902

この記事へのトラックバック一覧です: 背景を視野に収めた思考に向けて:

« 【書評】レイチェル・カーソン著(上遠恵子訳、森本二太郎写真)『センス・オブ・ワンダー』(新潮社、1996年) | トップページ | 【新刊紹介】理化学研究所 脳科学総合研究センター編『脳研究の最前線』上下(講談社ブルーバックス、2007年) »