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2008年2月18日 (月)

【記事紹介】茂木健一郎「脳と進化 ネットワーク思考の可能性とその限界」(『理戦』80号、2005年夏)

茂木健一郎「脳と進化 ネットワーク思考の可能性とその限界」(『理戦』80号、2005年夏)

□茂木健一郎氏の科学エッセイ
Gpss080218  「時の人」茂木健一郎氏の科学エッセイである。『理戦』(実践社)というやや「左」っぽい雑誌に掲載されたもの。近年多くの新左翼系理論誌が環境志向(一例として旧ブント)など市民運動への傾斜を強めるなか、詳細は知らないが、この雑誌も同様の傾向を見せているようである(他号を見れば、宮台真司、小熊英二、野家啓一など非左翼系の新「知識人」諸氏から、松本健一、西部邁、佐伯啓思らいわば「右」系の諸氏まで見事に並んでいる)。それはそれでカルチュラルスタディーズ的な関心事ともなろうが、ともかくインターネットの検索からたまたま見つけたのが今回取り上げる論文である。そして恥ずかしながら、かの茂木氏の論考をこのたび初めて読んだことを告白しておかなければならないだろう。
 論文は、→こちら(click here

□「無根拠性」の強靭さと科学革命上の契機としての重要さ
 この論文での茂木氏の主張は「無根拠性」の強靭さと科学革命上の契機としての重要さである。この無根拠性をもっともあらわにするものとして、熱力学の第二法則と説明原理としての進化論である「ネオ・ダーウィニズム体系」である。まずわたしの陳腐な頭脳が、専門が異なるというだけで簡単な事実すら忘却していることを痛感した。ネオ・ダーウィニズムはともかくとして、熱力学の第二法則が無根拠であるとはまったくふだん考えもしていなかった。しかしその無根拠性の「根拠」を読めば、それが特段目新しいものでもなんでもなく、ごくありふれた内容であるとも思われた。つまり、自分の特殊例を一般化するつもりは毛頭ないが、非科学者である庶民はごくありふれたものが無根拠であるという事実のうえに立っているということを忘れているらしい。いや、忘れているからこそ、安心してこの世をなんとかやり過ごしていけるのかもしれない。

□強靭さを発揮する無根拠性
 ともあれ、茂木氏によれば無根拠であることは、その仮説の力を弱めず、むしろ強靭さを発揮する。たしかに無根拠の前に、根拠付けようとしたさまざまの反乱は大半が失敗に帰し、結果、無根拠がまるで焼け太りのようにますます強くなったように思われる。昨今の社会情勢を見ても、ニューエイジもオカルトも、さらにはスピリチュアリティさえもが早くも「賞味期限切れ」の様相を呈し始めている反面で、「ゆとり教育」の反省もあって、理数系の科目が強化されるという話を耳にしたりもする。もっとも政策担当者のだれもがその科学の無根拠性を認知しているわけではなかろうが、それにもかかわらずこのように科学をシンプルに賛美称揚する体制を絶え間なく立ち上げてくる凄みにこそ無根拠の強靭さが垣間見られるような気がする。

□無根拠の連鎖
 じつは無根拠の強さというのはキリスト教でもなじみのものである。まず神とは何かという神学上の大問題において最終根拠となるのは「わたしはある。わたしはあるというものである」(出エジプト3:14)という「神の自己言及の禁止」という命令なのである。また神学論争を判ずるために開催されてきた(ことに古代の)公会議においては、基本的に非合理なわけのわからない説がつねに正統説となってきた。そして事実、当時合理的だと思われた(そして異端視された)学説はやがて時間の経過のなかで劣化していった。結局、非合理なものは非合理ゆえにこの劣化を免れているのである。
  しかし茂木氏によれば、こうしたいわば鉄壁の顔なし無根拠に対して果敢に挑戦した反乱の徒のなかから、科学のパラダイムチェンジを果たす偉業をなすものが現れてくる。ニュートンしかり、アインシュタインしかり。彼らがなにをやったのか。もちろん具体的な内容に触れることはできないが、茂木氏が言うには彼らは「一見関係のないものに補助線を引く」ことによって「無根拠の別の姿」を明らかにしたのである。しかもその営み自体は、無根拠のなんらかを明にしたが、しかし新たな無根拠を生み出し、かつ、無根拠に挑戦することはいつまでも無根拠のままであるそうな。

□無根拠を忘却する脱力状態の常態化
 結局、茂木氏の結論は、ラッダイト(イギリスの産業革命初期に、職を奪うものとして産業機械を敵視し、機械破壊運動を行なった職人たち)にならずにひたすら考え続けることが重要であるということである。ならば、これは無根拠に無限に耐え続けることができるようになれということになろう。しかしこの命題はそうならねばならないという当為的なものではなく、むしろそうなってしまうという事実確認的なものだと思う。つまり世の常識がいかなるものであれ、ドンキホーテはつぎつぎと現れてくるものなのである。
 そしてもしドンキホーテが出てこないような状態になっているなら、それは事実上科学精神が根源から危篤状態に陥っていることであり、教育の改革程度で解決できる次元ではなさそうである。そうした社会では無根拠を丸ごと忘却する脱力状態が常態化しているといってよいのだろう。なるほど、筆者も平均的な日本人として、先に述べたようにこのあたりの事情をすっかり忘却していた。日本危うし、か。あるいはだからこそ無根拠に古くより親しい宗教の出番が近いのか(それにしては正直言って、神のかの禁止命令すらもいつのまにか手垢にまみれた単なる命題に変わっているようなのだが・・・)。

□宗教側からの貢献
 その難解さから敬して遠ざけてきた野家啓一氏の思想に学ぶ必要があるようだ。そういえば、氏の主著の一冊は『無根拠からの出発』だった。宗教哲学的アプローチからもあらためて取り組んでみる価値はありそうである。宗教側からの貢献といえば、先ほどの神の自己言及の禁止がその一例だが、その他には、ナーガールジュナの「空自らを空ずる空」というものもある。そしてキリスト教と仏教との交点で「ケノーシス(無化)の神」が熱心に探求されてきた。こうした発想が「科学・こころ・宗教」という枠組みおいて秘める可能性も今後課題にしていくことができればと願う。ともあれ、そうした過程で無根拠を自覚し、無根拠に耐え、無根拠を今再び楽しめる境位に至りたいものである。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究助手)

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