今年度のノーベル賞
□受賞レースしてのノーベル賞
「科学と宗教」プロジェクト(フォウス社基金:三田一郎・神奈川大学教授および南山宗教文化研究所客員研究員指導)のアシスタントに昨年度着任して以降、いままで読み飛ばしてきた科学関係の記事に目が留まるようになった。今年度のノーベル賞に関する記事もその一つである。
朝日新聞10月12日朝刊に「ノーベル賞『実用性』に光」という見出しで記事が掲載されている。対象は医学生理学、物理学、化学の三賞で、経済学と文学という社会科学系・人文系の各賞は省かれている。
ノーベル賞と聞いて思い浮かぶのは、まずいささか下世話な話になるが、「受賞レース」。穏やかな学術研究とは程遠い、激烈な競争の世界であり、オリンピック競技に似ているということだ。情報化社会が進んでその度合いはますます高まっていることだろう。日本訪問時に撮影された受賞者の笑顔に金メダルを獲得したアスリートに似た面影を見出そうとしてしまう。わたしは一時期、京大医学部の先端科学研究棟のまん前に下宿していたことがあるが、まさに年中無休、真夜中でも煌々と電灯が輝く「不夜城」そのものであった。科学の進歩は崇高な理想と激烈な競争意識に支えられていることを象徴する風景だった。
□ノーベル賞の恩恵に与かる近代的な生活
しかし上記の記事に従えば、彼らの研究を推し進める問題設定は意外と身近なものだ。たとえば化学賞を受けたドイツのエルトゥル氏の成果は、20世紀初頭にすでに発見されていたアンモニア合成において鉄が触媒になるしくみを明らかにしたことだという。思いこせば、触媒という言葉は高校の化学の授業で習うものであり、100年近くに発見され、工業にも応用されている、アンモニアと鉄というありふれた物質をめぐるこの作用の原理がいままで明確にわかっていなかったとは知らなかった。また物理学賞をとったフランスのフェール氏は巨大磁気抵抗効果の発見が受賞理由だが、その仕組みの発見が携帯音楽プレーヤーやDVDレコーダーの発展を可能にしていると紹介されている。顧みれば、わたしたちの身の周りにあるほぼすべての工業製品の原点にはノーベル賞に輝いた発見・発明がある。ノーベル賞の恩恵に与かることのない生活など近代的な生活を送る以上ありえない。
□「こころ」とノーベル賞
では「こころ」が自然科学系のノーベル賞とかかわるのは、どういった面においてであろうか。まず最も近いと思われるのは精神病理学で医学生理学賞をとることだろうが、精神病に関しては周知の通り長年にわたり「こころの病」か「器質的な病」かという点で根本的な対立があり、ノーベル賞に関しては基本的には後者の立場で薬品を開発した場合などが受賞の対象となっているようである。もっとも、近年はフロイトなどの精神病理学の発想が脳科学の分野にヒントを与えているという報道もあるらしい。フロイト本人はノーベル賞を与えられないことに不満を抱いたようだが、その「末裔」たちにも光はあたりつつあるのかもしれない。しかし、あくまで主要な舞台は「こころの科学」ではなく「脳科学」の領域である。
□古くて新しい問題
戦後の日本では湯川秀樹や朝永振一郎がまさにヒーローだったことからわかるように、ノーベル賞は希望の象徴であった。いまでもある程度はそうだし、現代の韓国や中国ではかつての日本同様の重みを持つようである。しかしその熱情の背後にあるのはたんなる国家的な名誉だけではなく、この世の神秘が明らかにされ、またそれが日常生活を豊かなものにしてくれることへの快感が潜んでいるのではなかろうか。ノーベル賞はこころを直接のテーマとはしないが、こころは「ノーベル賞」を渇望する一面を持つ。それはある意味で自己を否定する存在であるかもしれないのだが。理性・知性と宗教心・信仰との関係は古くて新しい問題だとあらためて思うしだいである。
□科学を生み出し、支える「こころ」
ともあれ、こころを科学の対象にするだけにとどまらず、こころが科学を生み出し、支える面にも配慮していくことがわれわれには求められるだろう。本格的に自然科学を理解する哲学・思想・宗教の研究者が今以上に輩出されねばならないと思われる。三田一郎教授によれば、科学をめぐる新聞記事や非専門家による論考に関しては、基礎的な間違いも多く(「半分くらい間違い」だそうな・・・)、まともな対話になっていないことが目に付くそうである。そうした事態を突破していくうえでも、GPSS「科学・こころ・宗教」プロジェクトが一契機となれば幸いである。
(寺尾寿芳・南山宗教文化研究所「科学と宗教」プロジェクト・研究アシスタント)
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